バターとミルク
昨日、集中して遠藤周作の「死海のほとり」を読んでいた。まだ半分くらいしか読めていないがイスラエルの荒野や聖書にでてくるナザレ、ガリラヤ、カナなどの町を想像しながら読んだ。
貧しい人達は種なしパンやオリーブの実を食べ、神殿の偉い人はぶどう酒を飲みながら羊や小禽の焼いたのを食べていた。
そこで荒野で暮らしたという洗礼者ヨハネは野蜜と蝗を食べていたというのが気になった。野蜜というのは花の蜜なのだろうか?蜂蜜?蝗は炒って食べたのかな?まさか生で食べていたのか?荒野には他に食べる物が無かったのかなぁ?それとも修行のためにそういう物しか口にしなかったんかな?
「死海のほとり」でイスラエルを旅する小説家の「私」とその友人戸田は学生時代の思い出を語りながら聖地を見てまわる。
彼らは学生時代キリスト教系の大学におり戦時下の日本では白い目で見られていた。
修道士や神父は同盟国人なので祖国に帰還せず寮で薄暗い顔をして暮らしていた。
学生は食糧難と厳しい勤労動員というか軍事訓練みたいな事をさせられ、神の愛どころではなく、ただ空腹をみたす雑炊の方がありがたかった。警察には異教を信じる事を非国民だと言われ縮こまっていた「私」。
結核になった学生に外国人にだけ配給される自分のバターを運び続けたノサック神父。
ノサック神父は近所の家をまわり貴重なミルクを手に入れ病人に持って行っていた。
結核の学生は乳製品を受けつけない体質で同室の老人にバターとミルクをくれてやっていた。
老人はそれを他の患者に売りつけて煙草銭にしていた。
神父の愛は無碍にされていたと「私」は回想する。
愛とはただその人に寄り添うことだと私は思う。死海のほとりでは徹底的に無力な男としてイエスを描いていた。
イエスのとく愛とはなにか。
赦すこと。信じること。
それは目に見えず、肌で感じるものでもない。
神父の運んだバターとミルクは結核の学生が口にしなくても、他者の手を渡って必要としている人の口に入ったのなら神父の愛はどこかで実を結んだのではないか、と私は思った。
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