価値観がない国家日本の危機的現状と脱却法
エマニュエル・トッドの家族システムから、組織を強くするためには「力への意志、第三者の目、規範意識」の三つの志向性が必要だとわかりました。詳細は以下の記事を参照ください。
では、なぜ日本において価値観が喪失したのかというと、シンプルに日本という国は共同体として組織として国家として「強くなろうとしていないから」です。
だから、組織作りにおいて「力への意志、第三者の目、規範意識」の三つの志向性が必要だと言ったところで無意味です。メカニズムを解明し、理解させたところで意欲がないのだから全くの無意味です。
では、なぜ意欲がないのか。国家として強くあろうとしないのか。今回はここに踏み込んでみようと思います。
一に「強くある必要がないから説」はどうでしょうか。そう思い込んでいるでもいいと思います。そう願っているでもいいです。
単純に、戦争をする必要がないから戦争において強くある必要がないというところからの発想だと思います。国際協調主義を本気で信じているから、平和の状態が恒常的で固有の権利くらいに考えている、最後は国連がなんとかしてくれると思ってるお馬鹿さんなのかもしれませんね。
または、アメリカの同盟国だから最後はアメリカが守ってくれると思い込んでいるという発想からかもですね。これはタカ派の保守に多い発想です。
タカ派で保守と名乗ってるわりに、最後は他国の強国に頼るって依存心強すぎて、なにを保守しようとしてるのか皆目見当がついてないんじゃないでしょうか。まずは、自尊心を保守してほしいものです。
「自分を信じない奴なんかに、努力する価値はない」
つまり、浮かび上がってきたのはなにかというと、依存心が強すぎる=自主独立する気がないという点です。自主独立する気がないということは、自分の行動に責任を取る必要がない。
故に、一つ一つの行動に責任がないから、行動の選択になにかしらの方針がない。だから、行動指針がない=価値観が必要ないから、価値観が無くなったということでしょうね。
「今日の都合で魂を売った人々の決定などは、明日にでも崩れ去るものさ」
二に、行動の選択をしない状態、行動の責任を取らない状態が継続してきたから、「価値観がない状態が当たり前になった人間が大多数になった説」でしょう。
戦後、主権のない状態で育っていき、戦前戦中世代が減っていくと、必然として、「主権のない状態が常態となった日本を当たり前と考える人々」が大多数派になります。
この人たちが常識を形成したり、政治的決定をしたらどうなるでしょう。
とはいえ、日本に限らずに、この「無責任な価値観のない国民の大多数を占める状態」は民主主義の国家においていろんな国で似た現象が起こっています。
最初に警告したのはオルテガの「大衆の反逆」でしょう。
政治に関心のない、国家運営するだけのビジョンも能力も興味もない専門人=大衆が民主主義で国家を操ると現代の民主主義国家になります。(ここでいう大衆には医者や弁護士、官僚、学者といった知的エリートも含まれます)
民主主義による政治の腐敗を防止する方法はプラトンの哲人政治=善良で賢明な独裁者による専制政治しかないのが実情でしょう。
「ならば、今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ」
しかし、ここで皮肉が生じます。価値観がない国家で、価値観のない国民が選び出す「善良で賢明な政治家」とは如何なる人物なのかという。
さて、どんな人物を思いつきましたか。その人物はこの国をきちんと強く豊かにしてくれる人物でしょうか。それとも、自己愛に塗れた即物的な人物でしょうか。愛に満ち溢れた素晴らしい人でしょうか。きっと素晴らしい人なんでしょうね。
「しかし、この暖かさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それを分かるんだよ、アムロ!」
なんかもう書いてて絶望的な気持ちが蔓延してきたので、これを読んだ皆さんも絶望的な気持ちになってきたら、今の日本がいかに価値観のないヤバい状態なのかわかっていただけたかと思います。
克服法はあるのでしょうか。あるとすれば、まずは「現状がヤバい」と認識する人間が増えることでしょう。危機感のない人間は努力をしません。まずは、適切な現状認識から適切な危機感を持つことから始めてみましょう。