消滅家族の記録 2 明治維新の影
明治維新というと、歴代のNHK大河ドラマにも数々の志士が登場し、カッコいい大変革の時代というイメージ。しかし薩長や土佐などの運よく日本のトップに躍り出た一群の人たち以外のその他大勢にとっては、明治維新とは、争いの中で命を取られたり、職を失い慣れない商人や百姓に身をやつしたり、大変革の恩恵を受けることもなく災難に巻き込まれた不運な時代だったのではないか。少なくともわが先祖にとっては、不幸な時代だった。
この写真は大正10年(1921年)頃、新潟県・小千谷の遍了寺で撮られたもの。子供を抱いているのは祖母、子供は母、高齢夫婦は曾祖父母、それに寺の僧侶。墳墓に眠るのは竹内林右衛門重庸。曾祖母の父親だ。
亡母は「とみ子おばあさんが、死ぬ前に一度父親のお墓参りをしたいというので、信州から新潟まで行くことになった」と言っていた。当時の交通事情を考慮すれば、子連れの長旅は大変だったろう。
私の高祖父にあたる竹内林右衛門重庸は1868年5月10日に長岡藩の戊辰戦争・榎峠の戦いで戦死した。戦死に至る経緯は以下のとおりである。
信濃諸藩は新政府軍につくべきか最後まで決断を引き延ばしていたが、世の趨勢に逆らえず出兵することにした。
小千谷談判決裂後、榎峠を守っていた新政府軍は、軍監の岩村精一郎(後の岩村高俊・土佐藩)に峠の重要性に対する意識が薄く、また、長岡藩が開戦を決意すれば真っ先に要衝榎峠を奪いに来ることに対する危機感もなく、配置されたのは尾張藩兵1個小隊と上田藩兵1個小隊の計2個小隊だけだった。
午後2時頃から攻撃開始。新政府軍は少数の兵で、本道を突進してくる同盟軍側に対して銃撃を加え防戦したが、同盟軍の兵は多勢で次々敗れて後退した。
一方、軍事掛川島億次郎に率いられ迂回して山中に入った同盟軍は東方の高地から榎峠に攻撃を加え、会津藩萱野隊が榎峠の後方をおさえた。同盟軍の挟撃によって、尾張兵と上田兵は劣勢となり、夜9時に榎峠を放棄し信濃川を渡って撤退した。
というわけで、林右衛門重庸さんは戦いの初日に死んだので、前線の本営として利用された小千谷市の遍了寺に手厚く葬られた。遺髪は信州・上田に送られ、市内の寺に遺髪の墓がある。
明治維新後、とみ子おばあさんの実家の竹内家はどうなったのか?とみ子は地主の家に嫁ぎ、残りの家族は芝居小屋の経営に乗り出したが、すぐに火災で焼け落ちてしまい、焼け跡の清算をして神戸方面に移り住み、一家離散となった。
戦死した下級武士の竹内林右衛門重庸の一族は一家離散になったが、榎峠の新政府軍・軍監、岩村高俊(土佐藩)は戊辰戦争の功で永世禄高200石を得て、後に貴族院議員となり、男爵に叙された。
明治維新で、とみ子おばあさんの実家のような憂き目にあった庶民は、全国津々浦々に多数いるのだろう。とりわけ下級武士の多くは明治維新の影のなかに沈んでいったのだろう。
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