早稲田松竹で『汚れた血』を観る
子供のときに感銘を受けたけれど、大人になるとイマイチだった。あるいは、子供のときはイマイチだったけれど、大人になると感銘を受けた……。なんてことは、作品の受容において珍しくない。
◆◆◆
14歳の冬、俺は『汚れた血』を初めて見た。
母からもらっていた昼食代を節約して浮いたお金を携えて、自宅から徒歩5分ほどのレンタルビデオショップ「ポパイ」に向かうのが当時の金曜日の習慣。サービスデー、たしか10本500円の旧作VHSを借りるのが生活における数少ない楽しみで、そうしているうち、いつの間にか、ヌーヴェルヴァーグコーナーに収められたレオス・カラックス作品群に衝突したのだ。
同じタイミングで借りた『ボーイ・ミーツ・ガール』は当時の俺には難解だったが、『汚れた血』はいくらか取っ付き易く、何よりパッションむき出しの種々のシーンに夢中になり、すぐさまお気に入りの映画になった。くらった。
返却とともに即再レンタル。
そんなことを繰り返していると、あるとき、学校のスキー研修期間中に返却期日を過ぎてしまう事態に陥ったのも懐かしい記憶。帰宅次第、すぐに延滞料金を支払い返……せばよかった。が、後ろめたさ、そして、生来のだらしなさから延々と返却を遅らせ、最終的に店の定める延滞金上限額約2万5000円を支払うことになり、中学2年生のお年玉のほとんどが『汚れた血』で消えたのだ。
余談はさておき、とかく、モラトリアムに取り憑かれた少年期の俺にとって『汚れた血』は、抑圧を解放してくれるというかなんというか……そういったベクトルで底知れぬ魅力を持つ作品だった。
が、映画館で同作を観たことはない。
田舎の劇場で旧作のフランス映画が上映される機会はほとんどなかったし、上京した頃には自分の心情に対して、それまでとは別の折り合いの付け方をとるようになっており、東京の劇場で上映される際にも足を運ぶことはなかった。なんだろう。思春期にあまりに夢中になったからこそ、「大人になってまで、ブルーハーツを聞き続けるのが恥ずかしい」。そんな忌避感を『汚れた血』に感じていたのだと思う。
とはいえ、映画の魅力に気づかせてくれ、いまの職業に就く一因にもなった作品を一度も映画館で観ずに死んでいくというのはいかがなものか……。そんなわけで、初観賞から20年弱が経った今、早稲田松竹での上映に足を運んだ。
以下、当日の俺の様態と初めて映画館で『汚れた血』を観た感想となる。
◆◆◆
馬場。キタコレ。
学生ローンの看板もなくなってしまった駅前の光景。
今回のプログラムの中でも『汚れた血』はえらく盛況と聞いていた。前日、木曜日の上映も満席だったという。して、タバコも吸わず駅から早稲田松竹へ直行。上映2時間前に到着したところ、この時点での残席は100席ほどだった。
ファンが集って早々にチケットが売り切れると思いきや。まあ何度もリバイバル上映がされてきた作品ではあるもんな。ずいぶん気が急いてしまっていた。上映時間まで時間が空いたので、街を歩くことにする。
高田馬場のフィラデルフィアこと駅前広場。から見上げるBIG-BOX。意外と便利な施設として広く知られている。
某教授が大学院生に「俺の女になれ」とハラスメントをしたことで知られるレストラン。
変わらないところもあるにはあるが、いつ来ても変化に驚かされる街、それが今の俺にとっての馬場。映画館は結局、立ち見も含めて満席となったとのこと。
◆◆◆
さて。
少年期の俺にとって『汚れた血』の魅力は、なんといってもドニ・ラヴァンが疾走するシーンに詰め込まれていた。自分自身の閉塞感を代弁されているかのような解放的な躍動が画面に投影されており、さらに、「美しいものを見たときに『恍惚と我を忘れる』」美的な魅力もある。その二面は鬱屈とした俺の救いであった。
しかし、オジと呼ばれる年齢になって改めて観てみると、かつて繰り返し見た同シークエンスが、以前とは大きく異なって受け止められた。
コンクリートが詰まったような腹を殴打しながら身体を解放させる一連が、劇中の印象的なシーンの一つであり、類まれなる美を備えているとは今も思っている。しかし、かつてとは違って、衝動的な、パッショナルな魅力に重点が置かれているわけではないように思えて仕方なかったのだ。
『汚れた血』のスコアにおいて、えらく異色な「Modern Love」が劇伴として採用されている同場面。
楽曲自体はナイル・ロジャースPらしいダンサブルなメロで、かつて感じていたときのような解放的なイメージと直結するのだが、歌詞を聞いていると、その背景に流れているのは「諦念」……ではないかと思ってしまう。
アレックスも、ボウイの歌詞同様に、ある種の諦め(そして、それは汚れた血筋に依拠していよう)を抱えており、あの一連の運動はパッションとしてでなく、恋愛の“高揚”と、それが錯覚にすぎないという“幻滅”が同居している……そうした二極をアウフヘーベンさせた象徴なのではないのか? そんな風に受け止めた。
考えてみると『汚れた血』は、印象的な場面で、物理的、観念的に、二極が同時に存在するといった見せ方が多い。それらは、“飛翔”もしくは“浮遊”といった運動(重力ー反重力)を伴って現れる。
物語の大きな転換に寄与するパラシュート降下シーンや、ラストの飛行場でのジュリエット・ビノシュ……。エピックな場面ほど、“飛翔”ないし、“浮遊”といった運動が現出していることは疑いようがないーー『汚れた血』は物語の冒頭(アバンタイトル)も白鳥が飛び立つ場面から始まるーー。
すれ違う二つの心情がただそこに在る。そして、一方を良し悪しとするレイヤーを飛び越えようとさせるかのごとく、飛翔や浮遊といった運動が表れる。一見エモーショナルな映像表現に見えて、なんと弁証法的な手つきを大切にした作品なのかと……。失踪する愛だとか、不器用な主人公の、だとかそういったよく使われる惹句、その先にこそ『汚れた血』の魅力があるように思われた。
あと、あれだ。カラックス作品の中でも引用の頻度、密度が濃いのも印象的だった。
他者への傲岸不遜な態度、世間からの遊離、無口。そして、自分がしたいと思っていなかった役割を押し付けられ、その渦に飲み込まれていくという筋立ては、まるまるチャップリンからの引用であるし、多用されるクローズアップ、なかでも手のショットはブレッソンを思わず想起させる。印象的なラストシーンは成瀬巳喜男『乱れる』を参照している。ルネ・シャールをはじめとした詩学的な演出や文字の映し出し方はヌーヴェルヴァーグ、もとい、明確にゴダールであり、自作からの引用・反復も数多い。俺が気づかないところも多数の引用に埋め尽くされているんだろう。
とかく、かつての情動一直線とは違った複雑な魅力を汲み取った次第。
なお、「正しい解釈はないが、正しくない解釈はある」というのが、俺にとっての作品との向き合い方の主幹で、すれば、少年時代と今、どちらの作品への向き合い方も悪くない。
人は変わり続けるものであり、あらゆる作品は受容のタイミングによって、受け取り方が当然違ってくる。
真っ直ぐアカデミックに作品を位置付けようとすればそんな態度は不遜かもしれないが、アカデミアと縁がない俺は、受容の仕方の変化を肯定的に受け止めている。
いや……なんとも……自分自身の人生を左右させてしまっているかもしれない作品について書こうとすると、つい個人的な感傷、感情が前のめりになってしまう。まあ、誰にとっても同じよう作品はあろう。
そんなところで。
◆◆◆
早稲田松竹を出た後は、学生時代によく通っていたラーメン屋の店主が移転再オープンさせた「でぶちゃん」(旧店名:ばりこて)に赴く。
以前の店舗のときの方が美味かったように感じる。が、料理そのものというよりは、俺の味覚が変わったんだろう。変わらないことも変わることも悪いことじゃない。“I try. I try.”と歩んでいけばいいんじゃねえの、といったところ。