見出し画像

《長編小説》小幡さんの初恋 第六回:週末のパプニング その2

 鈴木は早速資料を取り寄せて土地へと向かった。とはいっても高速だと一時間もかからずに行ける土地であった。高速道路を走る車はビル街を抜けて、こじんまりとした下町を抜けた。と急に一面の畑と空き地が開けてきた。あのネットの広告で見て自分が感じた事に間違いはなかった。ここはアメリカ。移民の国、他人同士の街だ。

 この両川に挟まれた場所にある市は全体が一面の開けた平地で、東京のように坂は全くない。確かに空き地や畑が多いが、新築や古い住宅も当然あり、建築中の家もあったりする。コンビニやスーパーやドラッグストアなどの生活必需品が売っている店、さらにホームセンターやしまむらなどのファッション店等もちらほらあり、生活には不便はなさそうだった。こうして車で市内を回っていると鈴木はおかしな事に気づいた。この市は東京から離れてゆくごとに栄えているのだ。鈴木が最初に降りたった南の地域は先に説明した通りだが、中央は新しい駅が出来たせいで多少栄えている。とはいっても東京人から見たら実に寂しい光景だ。しかし北に向かうと様相は一変する。そこには巨大なショッピングモールがあり、さらにIKEAやコストコまであった。鈴木はまさにアメリカの郊外だと思った。なるほど、これがウチのグループ企業の事業の結果かとしばし眺めていた。

 市内を一通り回った後で鈴木は再び最初に降りた南の地域に戻った。やはり先程見た北の地域とは比較にならないほど閑散としている。しかし、それでも限界集落とは違ってとりあえず物はあるので生活には困らないし、何よりも空気がいい。一面に広がる青空なんて見たのはアメリカ以来だ。空き地と畑の緑はどこまでも広がりそれが都会に疲れた彼の目に癒しを与えてくれた。ここを終の住処にしようと鈴木は決めると彼はそのまま近くにあった不動産屋に飛び込んだ。

 その不動産屋は『谷崎不動産』といい、谷崎商事の谷崎家の親族が経営している会社である。谷崎家は元々この地域一帯を所有する地主で谷崎商事を経営する本家と分家の親族がいくつか会社を所有していた。この事は鈴木が不動産屋の主人との会話の中で、ここは谷崎って名前の建物が多いですねと質問したのを受けて主人が長々と谷崎家の歴史も交えながら説明したのである。鈴木はさらにさっき市内を一回りした事を語り、東京から遠いはずの北の地域はあんなに栄えているのに、どうして東京に最も近いはずのこの地域がこんなに閑散としているのかと質問したが、主人はため息をついてこの地域に駅もないし、駅を作るメリットもない。みんな自転車かバスで隣の東京の駅に行くからと答えた。

 鈴木は雑談の後に主人に向かって適当な家が欲しいんだが、今すぐ購入できる家はないかと聞いたのだが、主人はそれを聞くと渋い顔をして黙り込んだ後で言いにくそうに言った。

「いや、じきに無職になる人に家を売るのはちょっと……。あなた大体ローンなんて組めないじゃないですか」

「いや、ローンじゃなくてキャッシュで買う。物件さえ紹介してくれたら今すぐここで小切手を書いてもいい。私の話が信用できないから、スマホの口座の中身をあなたに見せよう。私は今すぐここに引っ越したいのだ」

 この鈴木の言葉を聞いて主人は飛び上がった。一瞬この客の頭がおかしいのかと思ったが、客の姿を見る限りまともな人間そうだ。主人は客のスマホから口座を確認したが、確かに家を買ったところで余分に余る金額がそこに表示されていた。主人は早速客に今紹介したい家がある。時間があるなら今すぐに案内しましょうと聞いてきた。鈴木は勿論承諾し徒歩でその住宅へと向かった。

 それが今鈴木が住んでいる。平屋の広い家である。鈴木は家を見て一瞬で購入する事に決めた。多少古びているが、庭に木もありなんの問題はない。大体余生を過ごすための住まいだ。ボロ屋だろうが、なんだろうが残り少ない人生は残り少ないのだから見てくれにこだわる必要はない。鈴木は買うと決めるとすぐに契約書にサインした。東京のマンションは既に売却が決まり後は出てゆくだけだ。やがて正式に辞職が決まると鈴木は家具や車一式を売り払って東京からこの土地に引っ越してきた。

 今、土手で鈴木は改めてこの土地で住みはじめた二年間を振り返ったが、やはりここにきてよかったと思う。基本的に他人に無関心だが、挨拶をすれば返してくれるだけの優しさは持っている気持ちの良い人たち。こうして誰にも干渉されず週末をゆっくり過ごせる日々。なんかあった時のための保険として入った谷崎商事の小幡さんや社長をはじめとする愉快な面々。再びサラリーマンになったので晴耕雨読の理想とは多少離れたが、別に問題はなかった。今、自分が働いているのは自分のため。充実した余生のためなのだから。


 鈴木はいつもサイクリングは市の左側にある川の土手から東京方面に向かって延々と走る。サイクリングの途中で彼はたびたび止まって、弁当を食べたり、休憩したり、いつもどこかのチームがやっている草野球なんかを見たりしている。たまに社長が社員と組んでいるチームが試合をしている事があるが、当然のように専務はいない。鈴木はそこに出くわすと挨拶をしてまたサイクリングを再開する。日が暮れると彼はサイクリングをやめてUターンしてから東京の隣の地区の西にある公園にあるプールまでひと泳ぎしてから帰るのだが、今日は気温が夏のように暑くてこれ以上サイクリングを続けられないような気がした。恐らく体がまだ暑さに慣れてないせいだろう。とりあえずサイクリングをやめて弁当を食べる事にした。食べている時に何故か小幡さんの顔が浮かんできた。小幡さんは今何をしているのだろうか。あの小さい貸家で洗濯でもしているのだろうか。しかし幾分潔癖症気味の鈴木は小幡さんが何を洗濯しているのか想像して、本日三度目のいかんいかんの呟きをして自分を戒めた。

 しかし暑かった。弁当を食べている間ずっと強い日差しを浴び続けていたので、鈴木はもう限界だと感じてサイクリングをやめて現在地からすぐそこにあるスポーツセンターのプールで泳ぐ事にした。この地区にはプール施設が二つあり、そのうち一つが鈴木がいつも行っている公園のプール。もう一つは現在地のすぐそばにあるスポーツセンターのプールなのだ。やはりサイクリングを切り上げてプールで体を覚まそう。来週は平温に戻るかもしれないし、今日と同じ温度であっても来週までには体が慣れてくれるだろう。

 鈴木はそう決めると早速プールに入りにスポーツセンターへと向かった。スポーツセンターはやはり昨今のコロナの事情で入場者のチェックは厳重に行われていた。まず体温チェックがあり、鈴木はずっと外にいたので体温が上がっていないか心配したが、平熱で無事通れた。それから施設の利用者の情報を記入する紙に自分の名前と住所を入力すると、チケットを購入してプールの施設の中に入った。

 鈴木は更衣室で水着に着替えると早速プールへと向かった。人は多かった。このコロナ禍で入場制限されているものの、それでもプールには沢山の利用者が詰めかけていた。鈴木は念入りに準備運動をしてから、体を水に鳴らすためにまずはフリーコースで平泳ぎをした。それから競泳コースへと移動してクロールで100mほど泳いだが、うまく漕ぐ事が出来ずへばってしまった。鈴木はクロールでは100mが限界だ。どうにもうまく漕ぎ進められないし、息継ぎもうまくいかない。どのようにすればとしばらくプールの中で考えたが、皆の冷たい視線にぶつかって慌ててプールから出て近くのベンチに座った。

 そうしてしばらくベンチでプールを見ていた鈴木はいつの間にか女性らしき人が目の前のコースを物凄い速さのクロールで何往復もしているのを見つけて目が釘付けになった。まるでバネみたいにひと掻きするごとに進んでゆく。あっという間に向こうのスタート台に辿り着くと、見事にターンを決めてまたこちらに帰ってくる。鈴木はいつの間にか泳ぐ女性を目で追っていた。しかし女性は鈴木の手前のスタート台に着くと突然泳ぐのやめてものすごい勢いでプールからスタート台に上がっきた。競技用の水着をきたその女性は水泳経験があるのか、肩幅の広い肉付きの良い見事なプロポーションだった。プールから出ると女性はゴーグルを外し、水泳帽を取って髪を下ろしたが、その瞬間鈴木と目が合って電気ショックを受けた止まった。女性は鈴木から目をそらし慌てて帽子で胸を押さえると駆け足でプールから去った。

 その女性とは小幡さんであった。間違いはなかった。背格好、顔の作り、鼻や口の形。全てが小幡さんであった。彼はメガネを外した小幡さんを初めて見た。切長の、たしかに美人とは言いきれないが、それなりに魅力のある顔だ。それにあの水着姿。彼女は亀の甲羅のような制服の下にあんなものを隠していたのか。鈴木はショックを受けてベンチで呆けたようにそのまま止まっていた。その時突然大音量で、今の鈴木の心情を代弁するかのように、こんな曲が鳴り出した。

まるで別人のプロポーション
Ah 水ぎわの Angel

君は初めて僕の目に見せた
その素肌 その Sexy

超高層ビル 走る Highway
Ah 銀色のプール

ざわめく街を切るように君は
トビウオになった

ドラマティックに Say Love
ミステリアスに So Tight

こんなに一緒にいたのに・・・

1993 恋をした
Oh 君に夢中

普通の女と思っていたけど

Love 人違い oh そうじゃないよ

いきなり恋してしまったよ 夏の日の君に〜♪

 この曲は確か鈴木が二十代の頃に流行った曲である。ポップスをよく知らない鈴木はこの曲が流行った当時、その陳腐極まりない歌詞を思いっきりバカにしたものだが、当時まだ恋人だった元妻に頼まれてカラオケで仕方なく歌った嫌な思い出がある。そんな歌をよりにもよってこんな場面で流すとは!鈴木は怒りのあまりプールの監視員の事務室に駆け込んで思いっきり怒鳴りつけた。

「何事だ!こんなハレンチな曲を公共の場で流すとは!君たちは一体どういう神経をしているのかね!自分の職をなんだと思っているのかね!さっさと音楽を消したまえ!」

「いや、お客さん。間違って音量を上げてしまったのは我々の責任ですが、これは有線放送でして……」

「何?有線放送だから?有線だからってこんなハレンチな曲を優先してもいいと思っているのか君は!」

 他の客は監視員の事務室の周りに集まってこの揉め事を見物していたが、そのうちの一人が興奮して怒鳴り散らしている鈴木を見てこうつぶやいた。

「あの、爺さん。なんであんなに顔真っ赤にしてるんだ。なんか恥ずかしがってるみたいだ」


 プールで散々怒鳴り散らした後鈴木は撫然としたままプールから出て行き、頭を冷やそうとバイクを思いっきり漕いで駅前のビルの三階にある図書館に向かったが、図書館の中で本を読んでも頭は冷えるどころかあの水着姿の小幡さんが鮮明に浮かんできて落ち着かなくなってしまった。それですぐに図書館を出て同じビルの一階のスーパーで食材を買おうとしたが、いきなり近くに小幡さんがいたので慌てて逃げてロードバイクに乗るとやめかけたサイクリングを再開した。そしてヘトヘトになって夜に自宅に戻ったのだが、この悪夢のような偶然は翌日の日曜まで続いたのだ。

 日曜日に鈴木は小幡さんと三回も出くわした。最初は小幡さんがコンビニでレジで支払いをしている場面。続いて小幡さんがホームセンターで買い物を選んでいる場面。最後に小幡さんが近所の奥さんと挨拶している場面だ。鈴木は小幡さんを見つけると逃げたが、最後に出くわした時、小幡さんがこちらの存在に気付いたのか、不思議そうな顔でチラリとこちらを向いたような気がした。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?