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最期の一筆
日本文学最後の文豪冬耳論外は今死の床で最期の小説を執筆していた。今病室の冬耳のベッド周りには彼の執筆を見守らんと掲載予定の雑誌の編集者や各出版社の幹部連中がズラリと並んでいた。編集者たちが見守る中、冬耳は震える手で万年筆を持ち一文字一文字時間をかけ過ぎるほどかけて書いた。編集者は冬耳が一文字を書き終えると一斉に安堵のため息を漏らした。だが彼らは冬耳が震える手で次の文字を書こうとしているのを見てすぐさま口を閉じて緊張感をあり過ぎるほど持って冬耳の執筆を見守っていた。
この小説家冬耳論外は冒頭にも書いたように日本文学最後の大富豪である。芥川龍之介とほぼ同世代で夏目漱石や森鴎外に深くお辞儀して挨拶したほどの人物である。同世代の天才芥川龍之介にいつもくっついていた事は有名である。彼は志賀直哉の小説に自分と近しいものを感じ彼やその仲間の白樺派の文豪たちと交流を持とうとした程の人物である。冬耳の短編はその志賀のものよりもはるかに凝縮されたもので、特に代表作『蜜柑』は題名があの梶井基次郎の文学史上の傑作『檸檬』と同じ柑橘系なので当時ただの便乗じゃないかと少し話題になったほどの佳作である。ちなみに冬耳は梶井の小説の題名は尊敬する先輩作家の珠玉の名作である自作の題名へのオマージュなのだと主張しているが、作品の掲載順は檸檬の方が早いので、文芸評論家の中にはやっぱり冬耳が題名をいただいたんじゃないかと疑うものもいる。冬耳は自分より若輩の太宰治や三島由紀夫とも面識があったようで、二人がたった一度だけ会話を交わしたあの伝説の飲み会の言い争いを偶然目撃したらしい。冬耳の話ではなんでもその伝説の宴会の夜、偶然彼はその居酒屋のカウンターで一人チビチビやっていたらしい。冬耳は太宰の新人いぢめに激怒し、飲み会が捌けた後、一人居酒屋で寝ていた太宰を叩き起こしてお前は人間失格だとキツく叱ってやったそうだ。冬耳は後日いぢめられた三島を憐れんで彼の家に菓子を持って行ったが、冬耳は大文豪の来訪に感激して号泣する三島に早熟の天才作家がやっと仮面の下を見せてくれたなと言って揶揄ったという。しかし今挙げたエピソードは太宰も三島もどこにも記しておらず、二人の関係者も誰からも両人が冬耳の名前すら口にした事を聞いた事がないので、今となっては事実は全く確認できない。とある評論家など全部出鱈目なんじゃないかと断言すらしている。
とにかく、そんな偉大な文豪冬耳論外はその最期の小説を一文字一文字を原稿用紙に刺青のように刻んで書いていたのである。書いている間冬耳の頭の中にはきっと漱石や鴎外に挨拶して無視されまくった事から始め、志賀直哉に居留守を使われたことや、同世代の芥川龍之介に媚を打って文芸誌に作品を載せてもらった事などが走馬灯のように駆け巡ったに違いない。漱石や鴎外のような偉大なる先人。志賀直哉や芥川龍之介のような同時代の伴走者。太宰治や三島由紀夫のような自分に影響を受けて小説を書き始めたが、不幸にもその途上で命を落とした息子にも等しいものたち。自分こそが明治大正昭和の文学の生き証人。先人たちや若くして亡くなった後輩たちの遺志を受け継いだ文学の遺産を平成令和の若き作家に託すためにこうして書いている。冬耳論外135歳。文筆活動110年。今、冬耳はとうに握力のなくなった手にペンを巻き、死に抗って動かぬ体を奮い立たせ、今、生涯最期の、三世紀の長きに渡る人生と一世紀を丸々費やした文筆活動の締めくくりの小説に筆を入れる!
「あの、口述筆記じゃダメなんですか?おぢいちゃんあんなに体震わせて大変そうじゃないですか。書道じゃないんだし、早く書いてもらわないとポックリ逝っちゃうかもしれないでしょ?ねぇ編集長おぢいちゃんにそう言って下さいよ」
冬耳が文字通り命を懸けて執筆している最中に発せられた掲載予定の文芸誌の編集部員のバカ女子の言葉を聞いて病室内は凍りついた。あまりにも非常識で無礼な発言であった。まさかこのバカ女子は冬耳論外という芥川龍之介と同世代で実物の漱石や鴎外を見たことのある大文豪を知らずにここに来ているのではないか。冬耳論外の最期の執筆を看取るために病室に来た各出版社の取締役や幹部たち出版界の重鎮たちは一斉にバカ女子とその上司の編集長をはじめとした編集部の連中を睨みつけた。しかし当の冬耳はそんな周りの雑音に全く動ぜず、いや動じないのではなくて耳が遠くて聞こえなかったのかもしれないが、とにかく一心不乱に筆で入魂の一文字を入れていた。
「バカヤロウ!」と編集長は周りが静まったのを見てバカ女子をヒソヒソ声で叱った。
「お前冬耳先生になんてこというんだ。冬耳先生は実物の夏目漱石と森鴎外に直に挨拶した人で、芥川龍之介に雑誌に原稿載せてもらう程の間柄だった程の人なんだぞ。いわば先生は日本近代文学の生き証人なんだ。その先生が今文字通りすぎるぐらい命を削って執筆しているんだ。みろよあの震える手で書かれた文字を。あれは先生の血だよ」
「いや血とか言われたってどうせ雑誌に掲載される時は活字じゃないですか。命削ってって言われたって書いてる途中に削り切っちゃったら意味ないでしょ。そうなったら原稿どうするんですか。見て下さいよ。おぢいちゃん原稿全然書いてないじゃないですか」
このあんまりなまでの不謹慎極まる発言に編集長は呆気にとられて声をあげそうになったが、ギリギリで自分を抑えて改めて冬耳の手元の原稿用紙を見た。原稿用紙は殆どが白紙で筆記があるのは三行しかない。これでは確かに生きている間に仕上げられないかもしれない。だが、冬耳論外はそれでも全力を振り絞って書いている。その偉大なる文筆活動の締めくくりに相応しい小説を。そして日本文学史上の最高傑作を書くために。
「俺たちは見守るしかないんだよ。お前もちゃんと見とけよ。この日本近代文学の偉大なる小説家冬耳論外という小説家の生き様と死に様を」
編集長は妙に悟り切った顔でこう言った。しかしこれだけ冬耳論外の偉大さと小説家というものの業を聞かされても、バカ女子はやっぱりバカ女子だから何にもわかってないようで編集長の言葉に呆れた顔を返すだけであった。
冬耳論外は心電図の反応が著しく低くなってもまだ執筆していた。彼を見守っていた人々は彼の一文字一文字をもはやひょっとしたら自分がショック死しそうな程の緊張感で見守り続けた。不思議と先程より一文字を書くペースが早くなっているような気がした。先生乗ってるなと冬耳を見舞っていた一人の老人が呟いた。この老人はかつての某出版社の社主であり、かつての冬耳論外の担当編集者であった。とうに大家であった冬耳は新人編集家の彼に漱石や鴎外がわざわざ自分に挨拶に来た事や、芥川龍之介に是非文芸誌に掲載させてくれと涙ながらに頼まれた事を虚実おり混ぜすぎる程盛って語った。彼は今病室に詰めかけている人間の中で誰よりも文豪冬耳論外の事を知っていた。その人間が言うのだから恐らく冬耳の執筆は快調なのだろう。このままいったら執筆は無事に終えるかもしれない。
だがその時例のバカ女子がまたやらかしてしまったのだ。彼女は皆が冬耳の執筆を見守っているのに、一人退屈そうにスマホを眺め度々思いっきりため息をついてその度に病室の人間を、冬耳の心電図を停止させていたが、冬耳のかつての担当者が冬耳の執筆が快調だと呟いたのを聞いたからか、単にいつまでも仕上がんない原稿にブチ切れたのかなんかのか、とにかく何をとち狂ったのかいきなり冬耳に向かってエールなんか始めたのだ。
「がんばれがんばれろ〜んがい!つよいぞつよいぞろ〜んがい!まだまだ書けるぞろ〜んがい!」
バカ女子がこうわけのわからぬエールらしき事を言った瞬間、冬耳の体が突然止まり心電図もブチっと切れた音がして電源ごと切れてしまったのだ。冬耳の周りにいた全ての人間がこれで全てが終わりだと思った。彼らは一斉にバカ女子を睨みつけた。流石のバカ女子も出版界のお偉方が揃って自分を睨みつけているのに気づき慌てて口を閉じた。だがすでに時は遅しと誰もが覚悟したその時、冬耳がまるで完全充電したように動き始めたのだ。冬耳は精気の迸るような目でバカ女子を見つめその枯れ枝どころかポッキーみたいに細い腕を上げてグーサインをした。君のために最期まで書くぞと冬耳はその伐採寸前の枯れ木のような体全体で語っていた。他の連中はそれを見て冬耳が何を求めているのか悟った。この大文豪が必要としているのはエールだ。熱く心に響くほどの、そう人生というマラソンのゴール前のラストスパートをかけさせるのはありったけの応援なんだ。彼らは自分たちの愚かしさを猛烈に悔やんだであろう。自分たちはこの明治大正昭和の激動の時代を駆け抜け、その時代の遺産を平成令和の世に伝えんとしているこの生きた人間国宝を授与されていないどころかノミネートすらされていない伝説の人物にただ平伏するばかりで彼の内に入ろうと試みることさえしなかったのだから。それをこのジジイだらけの病室に何故かいるいかにもバカそうな女に教えられるとは。彼らはバカ女子に続けとばかり自分たちも思いっきり声を張り上げて冬耳を励ました。
「がんばれがんばれろ〜んがい!つよいぞつよいぞろ〜んがい!まだまだ書けるぞろ〜んがい!」
だがジジイたちのエールは冬耳のお気に召さなかった。冬耳はわけのわからない事態に動揺し切っているバカ女子を潤んだ目で見つめ、そのポッキーより細い体でエールを懇願した。バカ女子はこの老人の懇願に、ジジイの上客に指名されたホステスの金と生理的嫌悪感の究極の選択を迫られたような気分になったが、皆がまた一心に自分を凝視しているので完全にヤケクソになって叫んだ。
「「漱石も鴎外ろ〜んがい!老害じゃなくてろ〜んがい!漱石も鴎外もろ〜んがい!世界で一番ろ〜んがい!がんばれがんばれろ〜んがい!つよいぞつよいぞろ〜んがい!まだまだ書けるぞろ〜んがい!」
冬耳は彼女の声援に対して再びグーサインで答え、さらに今度はその伐採寸前の木の幹のシワだらけの顔を綻ばせてバカ女子に向けた。バカ女子はその顔に今までに感じたことのない程の嫌悪感を感じたが、どうにか耐えて笑顔でそれに応えた。
冬耳論外は今バカ女子の声援に励まされて死の寸前にありながら猛烈なスピードで小説を書いていた。永井荷風に非モテと嘲笑され生涯童貞だった自分の最期がこんな天女の声援で飾られるなんてなんて素晴らしいのだろう。君のために書くさ。彼は生涯最期の小説をバカ女子に捧げようと思った。この作品を若き女性編集者に捧ぐと。
そうして冬耳論外はついに小説を完成させたのであった。冬耳はバカ女子を手招きして枕元に呼び寄せた。すると出版界の重鎮たちや上司の編集長が一斉に壁に退いて彼女のために道を開けた。明治大正昭和の時代を文学に生きた大文豪冬耳論外の玉璽にも等しい最期の小説を受け取るのがまさか新人編集者のバカ女子であろうとは。出版界の重鎮たちはこの光景を見て漱石と鴎外に直に挨拶したことのある大文豪冬耳論外の隠された人間味を見て微笑んだ。今バカ女子が近づき確かに原稿お預かりします。今からしっかり精読させて頂きますと深くお辞儀をしてその場で原稿を広げて読み始めた。冬耳は最期の作品を書き上げた安心感からかぐったりと体を布団に預け、今人生と文学から解放されようとしていた。もう満足だ。何も思い残すことはない。だがその時突然誰かが体を思いっきり揺さぶって、いや思っきり叩いて彼を起こした。目をパチクリ開けるとそこにガチギレ状態のバカ女子が上からガン見していた。バカ女子は死地に向かおうとしている大文豪冬耳論外に向かって思いっきり怒鳴りつけた。
「何これ?ちょっとおぢいちゃん小説舐めすぎでしょ!こんなの雑誌に載せてもみんな読んでくれないよ!おぢいちゃんちゃんと国語のお勉強したの?こんな下手な文章小学生だって書かないよ!一から全部書き直し!今度はちゃんとまともなもの書いてね!あっ、おじいちゃん今度は口述筆記でいい?おじいちゃん書くの遅いからいつまでも待ってたら来月号の締切に間に合わないもの。だから口述筆記でいくよ!」