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ロシア文学秘話:トルストイの家出

 トルストイ家では何もかもが混乱していた。世界的な大文豪であり、その名声はニコライ皇帝を超えるとさえ言われているレフ・トルストイは妻のソフィアと口も聞かないようになりとうとう屋敷から出て離れで寝起きするようになってしまった。子供らはみな母親の味方につき、偉大なる大文豪でありその名声は君主であるニコライ二世を超えると呼ばれるこの父はひたすら妻を避け外で出くわすとすぐに離れに逃げ込む有様であった。

 その偉大なる大文豪レフ・トルストイは今かつて自分のライバルとされていたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた。トルストイはかねてからこの作家の才能こそ評価していたものの、その小説の芸術性に関しては留保をつけていた。確かにドストエフスキーの世界は人間の醜さを深く書いているといえるだろう。だが芸術と呼ぶにはあまりにも粗雑に思えた。全てが整理されずただ投げ出されているように感じられた。トルストイはドストエフスキーを読む時いつもどこか憐れみの情を感じた。なんと酷い小説か。もう少し彼に芸術というものに理解があればもう少しまともなものを書けただろうに。

 今『カラマーゾフの兄弟』を読んでいてやはり同じような事を感じた。酷い、実に酷い。これではただの混沌の垂れ流しではないか。こんなものが芸術であるはずがない。あまりにも薄汚い情念に塗れている。ああ!だが彼の書いている事は真実なのかもしれない。これが世の人間の真の姿かもしれない。そうだ、家出しよう。こんな醜い人間どもから、そうワシの高邁な理想を理解できないバカなババアのソフィアから、そのバカババアの味方のバカチルドレンから離れで一人で暮らそう。もう家族も捨てて一人で生きてゆくんだ。そう決めるとトルストイは執事に妻と子供を呼ぶように伝えた。そして彼はソフィアと子供たちに力強くこう言い放ったのだ。

「ワシは家出することにした。ワシの理想はここではかなえらん。ワシは一人真実を探す旅に出る。残念だがもうここには帰って来ないだろう」

 ソフィアはトルストイの言葉を最後まで聞き、しばらくしてこう尋ねた。

「あなた、正直に言って。私が怖いの?だから逃げるの?」

 偉大なる大文豪トルストイは妻の言葉に震え上がった。だが彼は素直に怖いですとは言えなかった。これはすべて理想のため、己が理想に殉じるためだと自分に言い聞かせた。トルストイは妻と子供に背を向け歩きながら言った。

「さらばじゃ」

「あなたやっぱり逃げるんでしょ!」

 だがこのソフィアの叫びはトルストイには届かなかった。トルストイは老人としてはあり得ないほどの猛スピードで逃げ去っていたからである。

 トルストイは屋敷を出て馬車を借りて馭者にどこでもいいから駅へ連れて行けと命じた。馭者は言われた通り近くの駅まで馬を走らせようとしたが、その時後ろを見たら大量の馬車が後を追っかけてくるのに驚いた。

「トルストイ先生!私たちも先生にお供します!」

 トルストイはその声を聞いて驚き馬車から顔を出して後ろを見た。トルストイが顔を出したので後ろの馬車の客もいっせいに顔を出した。彼らはトルストイアンの中年男性であった。

「先生、僕たちも先生にならって家族を捨ててきました!もうカミさんなんかうんざりです!僕らが信奉するのは神様であってカミさんじゃないんですから!」

 トルストイはこの弟子たちの言葉に涙した。そうなのだ。自分たちが信奉するのは神であっておかみじゃないのだ。幸せな家庭も不幸な家庭も人間の理想とは程遠いものだ。さぁ行こう妻も子供も捨てて真の理想を目指そう。

 このトルストイの家出事件は世界中に影響を及ぼした。全世界の中年男性が理想を求めるとか言ってみんな突然妻から逃げ出したのである。トルストイの家出は理想のためか、それともカミさんがただ怖かったのか。それは今もなお論じられているが、トルストイに影響を受けた世界中の夫が妻から逃げたという現象はトルストイの理想を超えて我々に何かを強く訴えるのである。

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