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うどんのご利益 〜受験生と江戸っ子爺さんの涙涙の天かす生姜醤油全部入りうどん感動秘話!

 正月明けの午後の上野駅の近く、とある古びたうどん屋の前で小一時間ぐらい前ぐらいから一人の少年が立っていた。少年は第一ボタンまでしっかりと留めた学ランを着ており、肩にはパンパンのバッグをかけていた。きっと高校生だろうが、その制服はこの辺ではみかけないものだ。その田舎じみた制服のデザインからみると地方の高校生に見える。

 しかしその高校生はいつまで経ってもうどん屋に入ろうとしなかった。入りたくてもお金がないのかもしれないが、しかし高校生ならいくら田舎者でもうどん屋以外に手軽に食べられるところを知っているだろう。いざとなればコンビニでパンでも買えばいいのだ。だが彼はどこへも行かず、うどん屋の前から一歩も動かなかった。

 少年はうどん屋の軒先からどんよりとした東京の空を見つめて大きなため息をついた。そして周りを見た。この人混みの中で少年に声をかける人は誰もいなかった。たまにうどん屋の前に立ち止まる人も少年をチラリとみて、特に声もかけずに去って行った。少年はいつのまにか肩からずり落ちそうになっていたバッグを慌てて掛け直した。このまま立っていたら少年自身が地面にずり落ちてしまいそうだった。しかしその時うどん屋の中からいかにも江戸前の頑固親父といった風な老人が現れた。

「おいおいおい、おいらの店の前で何してんでい!ここはガキの溜まり場じゃねえんだぞ!」

 少年は突然の爺さんの登場にビビってごめんなさいと謝ってそのまま立ち去ろうとした。しかし老人はその少年を一喝して止めた。

「おい、お前さん、ちょい待ちな!オイラ何も恐喝してるんじゃねえんだぞ!理由を聞いてるんでい!そんな死にそうな面してずっとうちね店の前でずっと立ってるから心配したんでい!店の前に立たれちゃ迷惑だい!さっさと中に入ってくんな、そこで事情を聞こうじゃねえか!」

 少年はこの江戸弁の老人の乱暴な言葉にビビッて思わず立ち止まって振り向いた。彼はそこに人情味あふれた下町の爺さんを見たのであった。少年は老人の手ぶりに誘われてうどん屋の中へと入った。店に入った温かい空気と共に途端うどん粉のホカホカとした匂いが漂ってきた。店には客は誰もいない。少年は店の奥に恐らく老人の奥さんであろう婆さんを見た。すると婆さんも彼を見とめて老人に声をかけた。

「おい、あんたどうしたんだいその子は。まさか誘拐したんじゃないだろうね」

「このコンコンチキが!なんでオイラがこの餓鬼を誘拐しなくちゃいけねえんでい!おいらはこいつがずっと陰気な顔で店の前に立っていたから首でもくくられちゃ困るってんで中に入れただけだい!」

「アンタ人の冗談を真に受けるんじゃないよ。全くいつまで経っても田舎癖が抜けないんだから」

「なんだと?おいら生まれも育ちも東京だぜ!お前さん、いくら自分が徳川からの江戸っ子だからって人をバカにしちゃ困るぜ!」

「あ~らそうかい。結納の時アンタの爺さんズーズー弁で酷かったじゃないか。親戚の連中それ聞いてみんな大笑いであたしも親も恥ずかしいったらありゃしなかったわ」

「出鱈目ばかり言いやがって!この餓鬼が信じ込んだらどうするんだい!」

 この下町夫婦の丁々発止の会話を聞いて少年は遠く離れた両親や親戚の事を思った。彼は遠く離れた故郷を思い出してたまらず声を上げて泣いた。

「おい、どうしたんでい!人の店の中でなく奴があるか!」

「ちょいと、アンタがそうやってこの子にきつく当たるから泣いちまったんでしょ!」

「やかましい!このコンコンチキ!おいらがいつこの餓鬼にきついこと言ったんだ!」

「ああ!突然泣いちゃったりしてごめんなさい!違うんです!ただこの店に入ったら急に田舎が懐かしくなって!」

 うどん屋の主人と女将はこの少年の言葉を聞いて少年の顔をじっと見た。この子は恐らく地方の子に違いない。しかし何故東京にいるのか。家出少年というわけではなさそうだし。カウンターの女将は泣いている少年のそばに寄ってこう尋ねた。

「ねえ、あんたどうしてこんな所に一人でいるんだい。ひょっとして道にでも迷ったのかい?よかったら理由わけを話しておくれよ。このおっかない江戸っ子気取りの田舎者の旦那よりあたしの方が話せるだろ?」

「誰が田舎者だい!いい加減にしろい!」

 少年は泣き腫らした目を開けてうどん屋の夫婦を見た。彼はこの共に江戸っ子の口の悪い夫婦に何故か親戚のおじちゃんおばちゃんのような親しみを感じた。少年は夫婦の好意に絆されて口を開いた。

「あの、最初に言っておきますが、僕家出したとか、道に迷ったとかそんな事ないので安心してください。実は僕来週の大学受験のために今日田舎から東京まで来たんです。だけど上野駅の改札を出て外に出た途端急に足がすくんじゃって」

 うどん屋の主人は大学受験と聞いてハッとしもうそんな時期かと思った。

「なるほど受験生だってことかい。それでどこの大学受験するんだい?もしかして本郷かい?」

「はい、その本郷です」

「ま、まぁ本郷っていっても他にも大学があらあな。まさかあの赤門ってこたあねえよな」

「はい、その赤門です」

 これを聞いてうどんの夫婦はあんぐりと口を開けた。そんな学士様になろうという人間がどうしてこんな寂れたうどん屋にずっと立っていたのか。主人は再び尋ねた。

「で、どうしてオイラの店の前で暗い顔でカカシみてえに立っていたのさ。オイラ本気で首でもくくるんじゃ心配したぜぇ」

 この主人の言葉を聞いて受験生は膝から思いっきり崩れ落ちた。

「ああ!それもこれも全部受験のせいなんです!僕は生まれながらのあがり症でいつも大事な時に失敗するんです。中学受験の時も緊張のせいで志望校に入学できず滑り止め。高校受験も同じ理由で滑り止め。だけど中間テストや期末テストは常に学年トップで全国共通模試も全国トップクラスで教師も緊張さえしなければ余裕で赤門を潜れると太鼓判を押してくれたんです。だけど僕はこの通り異常なまでのあがり症だから、やっぱり今度も落ちてしまうんじゃないかと不安になって!」

 うどん屋の女将は崩れ落ちた少年を介抱してテーブルの椅子に座らせた。そして深いため息をついて言った。

「はぁ、頭のいい人間にも悩みはあるんだねえ。うちの息子たち田舎者の誰かの血のせいで大学さえ行ければ御の字のバカ揃いなんですけどねぇ。で、とりあえず水持って来てあげるから飲んでよ」

 受験生はありがとうございますと礼を言いしばらく黙ってテーブルに座っていた。主人はその受験生をしばらくじっと見て何事か考えていた。そして受験生が女将の持ってきた水を一口飲んでコップをテーブルに置いた時彼にこう尋ねた。

「生まれはどこだい?」

「長野です」

「お前さん、そばは好きかい。長野っていやぁ信州そばで有名だろ?」

「勿論大好きです。地元ですから!」

 この受験生の答えを聞いて主人はやっぱりだと思った。主人はしばらくしてこう言った。

「だからお前さんはそんなに弱っちいんだよ」

「ああ!アンタこの子は自分とおんなじ田舎者じゃないか!どうしてそんなに冷たくできるんだい?」

「お前は黙ってろい!オイラはこの坊ちゃんと話しているんだい!」

 主人はこう妻を怒鳴りつけてから再び受験生の方を向いた。どうやら受験生は先程の主人の言葉が気に障ったようだった。

「あのお尋ねしますが、僕にはあなたがさっきおっしゃったことの意味がわかりません。どうしてそばが好きな人は弱いんですか?僕の地元の人はみんなそば好きですけど、強い人たちばかりですよ」

「ほぉ〜、お前さんそばみたいにヒョロヒョロ細くて弱っちいと思っていたら意外に言うね。流石に芯まではふやけていないって事かい?」

「質問にお答えしていただけますか。もう一度お尋ねしますが、なんでそば好きの人は弱いんですか?あなたは信州そばを一度でも食べたことがあるんですか?」

「おいおいおい、そんな食ってかからんでもいいだろうに。たかが蕎麦じゃねえか」

「たかがじゃない!」と受験生は叫んだが、その勢いで思わずテーブルを叩いてしまった。女将が慌て布巾でコップからテーブルに少しこぼれてしまった水をふき田舎者の主人がごめんなさいねと受験生をなだめた。

「この田舎者の旦那は別にそばが嫌いじゃないのよ。ただ田舎者だからそばの味がわからないだけなの」

「このコンコンチキが、今この坊ちゃんはオイラと話してるんだい。テメエはお客さんのために奥でうどんでも茹でてやがれ!」

「そんなこと言ったって誰も来やしないじゃない。今日はまだ一人も来てないのよ」

「やがましい!」

 どうにかカミさんを追い払った主人は再び受験生に声をかけた。

「いや、邪魔が入ってすまなかったな。さっきのお前さんの問いに答えてやろう。あのな、俺がさっきそば好きのお前さんを弱いって言ったのは」

 とここで主人は一旦言葉を切り、そして受験生をじっと見てからこう言った。

「それはお前さんにコシがないからだ」

「コシ?コシって麺のコシですか?」

「おうそうよ。そのコシだよ。お前さんは芯はちゃんとあるが粘りの強いコシがねぇ。お前さんだってうどんは食べたこたぁあるだろ?あのもちもちして噛むと歯を弾き返すぐれえの粘り強えコシを。お前さんはそのコシがねえからいつまで経っても弱いんだよ。コシがねえから跳ね返せなくてすぐ折れちまうんだ。それに蕎麦にはうどんみてえな華がねぇ。灰色の麺に澱んだ焦茶のつゆ。お前さんは多分東京に来る前に願かけてそんなものを食べたんだろう。だけど蕎麦なんて食ってちゃ受かるもんも受からねえよ。うどんみてえに明るいもん食べなきゃ未来なんて開かねえぜ」

「いや、蕎麦にだってコシはあるし、大体蕎麦はあなたの言うように縁起の悪いものじゃありませんよ。その発言今すぐ撤回してください。あなたのおっしゃった事は信州そばに対する侮辱です!」

 主人はどごまでも引き下がらない受験生に感心した。大抵の人間は自分の一喝でしゅんとなるのにこの受験生はどごまでも自分に食い下がってくる。彼は突然この受験生のためにあのうどんを作ろうと思い立った。あのうどんを食べさせてわからせてやりたい。彼はそう決めると良しと自分に声をかけてそれから受験生に向かって言った。

「おい坊ちゃん。今からオイラが天かす生姜醤油うどん作ってやるから食べてくんな」

「天かす生姜醤油全部入りうどん?なんですかそれは」

「へへっ、一口食べればすぐにご利益が出るっていう素晴らしいうどんさ。どうだい食べてみるかい?それとも蕎麦よりずっとご利益があるのを認めるのが怖いから遠慮するかい?好きにしていいぜ」

「食べますとも!」

 主人がまだ言い終わらぬうちの即答であった。受験生はその天かす生姜醤油全部入りうどんとやらが自分の愛する信州そばにはるかに及ばない事を自らの舌で確認してそれを主人に教えてやるためにあえて食べる事を選んだ。不味ければ不味いと伝え感謝だけして店を立ち去ればいい。この店の事は東京にもこんなに暖かい人がいた事と、だけどそんな人が作った天かす生姜醤油全部入りうどんとやらは信州そばと比較すら出来ないほど不味い代物である事だけ覚えておけばいい。さよならクソ不味いうどん屋さん。赤門を潜ったら二度とこの店に来る事はないだろう。

 主人はこの受験生の承諾によし来たと答えた。

「じゃあ今すぐ天かす生姜醤油全部入りうどん作ってやるからもうしばらくそこで待ってな。とびきりのご利益のあるうどん作ってやるからな」

 主人は厨房に入ると先程女将が茹で上げたうどんをどんぶりに開けるとそこに黄金色の露を注いだ。それからそこに天かすの山を振りかけようとしたのだが、そこに女将が文句を言ってきた。

「いやだねぇ。アンタあの子にそれ出す気かい?そんなもの出されたらあの子逃げちまうよ」

「いや、オイラあの坊ちゃんと約束したんだぜ。天かす生姜醤油全部入りうどん食わせてやるって。だから止めてくんな!」

「ああ!そんなもの好き好んで食べるのはアンタの爺さんみたいな変わり者の田舎者だけなんだから!およしよ、そんなうどん出されたらあの子びびって逃げちまうよ!」

 しかし主人は妻の文句を無視してどんぶりに天かすを富士山みたいに振りかけてしまった。それからスプーン一杯分の琥珀色の生姜を落とし、最後に五回転する龍のように醤油を注いだ。このうどんを一口食べりゃあの坊ちゃんもオイラの言いたい事がわかるってもんだい。今時の子供はコシがねえからちょっとした事でポキって蕎麦みてえに折れちまう。だからおいらがこの天かす生姜醤油全部入りうどんであの坊ちゃんにコシを注入してやるのさ。

 そうして出来た天かす生姜醤油全部入りうどんを盆にのせると主人はそれを自ら受験生のテーブルに持って行った。

「へい、お待ち。これがご利益のある天かす生姜醤油全部入りうどんさ。よく噛んで存分にコシを味わいな」

 受験生はそう言って差し出された天かす生姜醤油全部入りうどんを見てそのあまりのグロテスクさに驚いて思わず口に手を当てた。何がご利益のあるうどんなのだろうか。こんなものまず食えないではないか。ああ!うどんに山盛りになっている天かすは観光客があちこちに捨てたゴミそのものだ。そのゴミの山のふもとにちょこんと乗っているのは生姜は公害で汚れた川に浮かぶ産業廃棄物だ。そしてとぐろを巻くようにかけられている醤油はまさに地元で問題になっている工場の廃液の耐れ流した。こんなもの食えたものじゃない。いや、食ってはいけないのだ。東京ではこんなものがご利益があると食い物だと言われているのか。バカバカしいにも程がある。こんなもの食べずともうちの信州そばに劣ることはわかっている。断って礼だけ言ってさっさとこんな店から出て行こう。ああ!こんな都会の産業廃棄物を見たら今すぐにでも地元に帰ってあの信州そばを食べたくなる。あの森の陰になった石のような深い色彩の蕎麦の麺の美しさ、そしてまるで黒土のようなあのつゆ。ああ!今すぐうちに帰りたい!受験なんかほっぽりだして今すぐに!だがその時受験生はふと天かすのゴミの山から覗く麺の眩いほどの輝きに目を止めた。と同時に天かすや生姜やさらには醤油までも輝きだしているのを見た。このうどんはもしかして東京そのものなのか?極彩色で極楽も地獄もすべて含んだ都市。彼は先ほど主人に自分にはコシがないと言われた事を思い出した。この東京でこれから生きていくにはこのゴミにまみれたうどんのような世界を生きてはいけないのだ。このまま食べずにこの店を去ったら自分はここで生きていくどころかまた受験に失敗して滑り止めの大学にいってそれからも延々と滑り止めの人生を歩んでしまうだろう。食べなければならぬ。このゴミうどんを最期の一滴まで食べて飲み干さねばならぬ。彼はそう決意して震える手で箸を取った。

 うどんは受験生の箸から何度も滑り落ちた。彼はその度に落ちるうどんのぬめぬめと光に胸がむかついた。だが受験生はやっとうどんを掴んだ。今度こそ落とさないぞと彼は慎重にうどんを口元に寄せて行った。主人はその彼のそばに立って注意深く受験生を見守った。女将もいつの間にか厨房から出てきて主人の隣で同じように彼を見守っていた。果たして受験生はうどんを完食できるのだろうか。

 受験生はうどんを一口食べた瞬間パッと目の前が明るくなったような気がした。いや、気がしたのではなく実際に視界が明るくなっていたのだ。さっきまであんなにも懐かしがっていた蕎麦はモノクロの映像となり、代わりに今食べた天かす生姜醤油全部入りうどんが極彩色に輝きだした。彼は勇気を出してうどんを噛んだ。なんというコシだろう。こんなコシ自分が食べた信州そばにはなかったのものだ。弾むような、まるでトランポリンで遊んでいるような強いコシ。ああ!これこそが都会の食べ物なのだ。なんてことだろう。さっきまであれほど軽蔑していたものが一瞬にして憧れのものになってしまった。天かすも、生姜も、五回まわしで注がれる醤油もこの都会の全てが入り混じった極彩色のうどんが今自分の体内に入っていく。これが東京なんだ。この天かす生姜醤油全部入りうどんはこの大都会の縮図なんだ。大都会を生きていくためにはこの太いうどんのようなコシが必要なんだ。受験生はうどんを泣きながら食べ、食べながら泣いた。噛めば噛むほど体に力が湧いてくる。このうどんのコシがあがり症の自分に受験から逃げるなと喝を入れてくれる。ああ、もう甘えはしないさ。だって僕はこの大都会で生きていくために受験に来たんだから!だけどなんてことだ。こんなゴミにしか見えなかったうどんが本当に自分のご利益になるなんて!

 一瞬にして天かす生姜醤油全部入りうどんを平らげてしまった受験生は涙を流しながらそばに立っていたうどん屋の主人と女将に深々と頭を下げた。

「ありがとうございました!こんなお上りさんの僕に親切にしてくれただけでなく、こんな美味しいうどんまで食べさせてくれてもう感謝しています!」

 主人はこの受験生の涙ながらの感謝に感激して自分も泣いてしまった。

「いいってことよ!こちとらお前さんの信州そばをバカにしたようなこと言って悪かったな。実はオイラも信州そばは好きなんだぜ。だけど信州そばにはうどんに比べたらコシが足りねえようなきがするんだよ」

「いえ、おっしゃりたいことはよくわかります!僕もこの天かす生姜醤油全部いりうどんを食べて自分が田舎でどんなに甘やかされていたがを一瞬にして変わってしまたんです!僕も生意気な事を言って申し訳ありませんでした。ついでに食べる前までこの天かす生姜醤油全部入りうどんをバカにしていたことも謝ります。僕は最初にこのうどんを見た時、どう考えても産業廃棄物だと思ってました。だけどそれがこんなにも美味しいものだったなんて。僕はこのうどんにこの大都会を感じました。この大都会で生きていくにはまず大学受験に受からなきゃいけない。そのためにはうどんのコシのように強くあらねばならない。僕はこのうどんからそんな事を学びました!ありがとうございます!これもうどんのご利益のおかげです!」

 主人は受験生のこの熱烈な感謝の言葉にさすがに戸惑い、ああと頷くだけだった。今彼の前にいる受験生はさっきまでのやせっぽっちの田舎の高校生ではなく、すでに将来への決意を固めた青年を迎えようとしている男だった。その青年を迎えようとしている男は盆のどんぶりを綺麗に並べ直した後で立ち上がり主人と女将に向かって深々と頭を下げた。

「どうもありがとうございました!」


 受験生が店から去ったあとうどん屋の夫婦はいまだ客の入らない店内でさっきの受験生の事を話していた。

「あの子、今どき珍しいぐらいのいい子だったわね。あんな子うちにも欲しかったわ」

「へっ、オイラはごめんだね。あの坊ちゃんめんどくさそうだろ?いろいろ理屈っぽくて」

「だからアンタは田舎者なのよ!親が田舎者だからって無理して江戸っ子の真似してしゃらくせえとかふざけているからろくな子供が生まれなかったんだわ。ああ!うちの馬鹿どもにあの子を見せてやりたかったよ。あの子が馬鹿どもが住んでいるうちに来てくれりゃ、馬鹿どもも改心してもっといい大学にいってくれたのに」

「なんだとこのコンコンチキめ!言わせておけば!」

 しかしその時いつの間にか店に入っていた常連客の爺さんが二人に声をかけた。

「おいお二人とも痴話喧嘩はその辺にしてくんないか?」

 うどん屋の夫婦は揃って口を閉じてカウンターに座っている客の方を向いた。

「おお、旦那!いつの間にかいらしゃってたんですね。で、ご注文は?いつものかけうどん?どうせアンタ天かす生姜醤油全部入りうどん食べないですよね?さっきとある学生さんが涙流して食べてたうどんなんですけどね」

 すると客は指をテーブルの向けてこう言った。

「その学生さんか知らんがそこに大きなバッグがあるんだよ。アンタらあれどうするの?」

 夫婦はテーブルの下に置いてあるバッグを見て口を大きく開けた。

「アンタどうすんだよ!このままじゃあの子路頭に迷っちまうよ!アンタあの子から泊まり先とか聞いてないのかい?」

「聞いてるわけねえだろい!あの餓鬼自分の大事なバック忘れるたあ!どこまで間抜けなんだい!」

「ああ!どうしよう!」

 と客の事などすっかり忘れて夫婦が叫んだその時店の戸ががらりと開いてそこからさっきの受験生が飛び込んできた。

「すみません!僕この店にバッグを忘れてしまったみたいで。あのぱんぱんおバッグなんですけど見かけなかったでしょうか!」

 夫婦は揃って指でテーブルを指した。すると受験生はすぐさまテーブルの方に飛んだ。

 バッグを胸に抱えた受験生は先よりも一層深く夫婦に頭を下げて礼を言った。その受験生に向かってうどん屋の主人は諭すようにこう言った。

「おい、お前さん。いつまでもガキじゃねえんだから、何事にもコシを持って行かないとな。まぁ、これもうどんのご利益よ」

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