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【エッセイ】「考」と「老」

今の自分についてなにかしら批判的な見方をするためには20年はかかる
けれども、そんなに待ってもいられないので、自分を俯瞰するという危なっかしいやり方で人はその代替を試みる
自分を冷めた目で見るとか、徹底した自己批判というのは、時間の経過をどうにか模倣しようとするひとつの策だ

批判的に考えるとは、だから未来を先取りしようとすること、つまり「老いる」ことだ

思考が進むとき流れるあの「停滞」した時間は、「老い」の模倣であり、ひょっとすると「老い」の最小単位でさえあるかもしれない
その思考を抜け出たとき、私たちは確実にその前より老いている。それが堂々巡りの考えであったとしても

たとえば今「俯瞰して考える」とするとき、そこで先取りされた未来は、いったいいつなのだろうか、と思ってみる。五年後? 十年後? 二十年? 百年? 千年?

おそらく十年くらいにとどめておくのが絶妙な距離だ
回想という表現形式は、だいだいそれぐらいの間隔で、昔をながめているように思える
数十年経ったあとの回想であっても、この十年という距離感を忠実に保っている場合がほとんどではないだろうか

たとえ回想ではなくとも、文章を書くとき暗に設定されている視点はだいたい十年くらいなのかもしれない
十年というのが、今を生きるほかの人々ともっとも共有しやすい時間のスパンであり、
また、私たちの一般的な想像力の限界が、だいたいそのくらいだからだろうか

とはいえ、あまりにうつろいやすい時代では、その未来の先取りはより短く切りつめられる傾向にある
あるいは逆に思い切って、もうそういった手近の未来も諦めて、ずっと先へむかって老いるという手もあるだろう

すくなくとも、千年以上の未来まで突き抜けた、透徹した思考があることは私たちも知っている
それらはひょっとすると今も、「考えつづけている」かもしれない
老い続けているかもしれない
それは、その終着点にたどりつかないほど果てしなく老いつづける

だからある意味、古びない考えとは、今も老いつづけているもののことだ
今を生きるしかない私たちにとっては、その老いが永遠に続くようにさえ思われる

それは考えつづける
人から人、ことばからことばへと、突き抜けながら
まるで今も若さの盛りにあるみたいに
だからこそ老いるみたいに

そのような千年前から今に続く流れに触れるとき
その年月のぶんだけ人は老いる
そして、そうやって老いた年月だけ先の未来に、その思考は届こうとする
あたかも千年の過去を今を支えに、未来に向かって折り返すようだ


読んでくれて、ありがとう。

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