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【完】刹那的たまゆらエセー

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後から推測するところ、この断片たちの主なテーマは、信じること、忘れること/ 裏テーマとして「なにかを創るとはいったいどういうことなのか」/ 最初に問題設定があったわけではなく、書…
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2024年7月の記事一覧

眠れない問い、言葉の境遇

眠れないから書くのか書くから眠れないのか。なにも考えないなら、書くか、眠るかだ。 * 人は一生かけて、ひとつの不分明な問いを発しているようなものだ。その意味では、人は生涯意味のあることなどなにも言わない。その意味では、誕生から死に至るまで、ずっと産声をあげつづけているようなものだ。 * 死が発されつづけた産声を断ち切って、問いかけが完成するのかと言うとそうじゃない。どんな問いが発されたのかは死んでからもわからない。ただ、そこに問いがあったということだけを、感じとめる。

ため息支え憂鬱重ならないさよなら

ため息を別の言い方をするなら、それは「そこに寄りかかろうとする息」、それか「支えにする息」だろう。もっと言えば「息の杖」。なぜなら「ため息を吐く」「息を吐く」という言葉を考えてみよう。この「吐く」を「はく」と読むのか「つく」と読むのか。「つく」だと思う。まるで杖をつくようにして、支えとして吐き出されるのがため息だ。 * 実際のところ、ため息をするとき、なにかに寄りかかっているような身体感覚があると思う。もっとも、それに寄りかかったせいで、余計に暗い気持ちになってしまうのも

失楽園の知らない私

同じ歌を何度も執拗に聞き返しているのは、それが与えた痛みを薄めようと欲しているようでもあれば、もう一度痛みを欲しているようでもあり、二つの欲望のあいだを揺れることで生じる酩酊を、欲しているようでもある。 * 自分の心の状況をそのままに体現しているような作品に出会うことはない。人が作品に自分を重ねるとき、たいていはどこかがズレている。たいてい作品の中の美しい部分が、私たちに重なってくれないのだ。このズレが存在しないと錯覚することが、私たちのなかに快い感情、自分が浄化されるよ

美しい引き算と罪深い足し算とその「和」と「差」

引き算の美学はあっても足し算の美学はない。すくなくとも日本におけるそれを知らない。私たちは要素を引いて余分と思われるものを省いていくときには、気持ちいいと思うが、逆に意図的になにかを足そうとすると、なんだか申し訳ないような気になる。罪の意識さえ芽生えてくる。 * 引き算によってできた空白によって美しさをつくりだすこと。これは日本においては「和」にたいする抵抗と服従のまじった両義的な応答だ。と、とらえてみる。「和」を乱さないために、どうすべきか。できるだけ言葉を、要素を、減

生きるデジャブ知る忘れる動物

走るなかで、息が体に追いついてしだいに慣れていくなかでそれでも慣れないであるもの。それが生きることだ。と、デカルトは言ったのか? * デジャヴとかいう時間の返し縫い。あれもまた自分という織物を補強するためにあるのかもしれない。補強されているはずの自分たちにはまったく理解できないけれども。 * 電灯の白いカバーのなかで、光に照らされつつづけている死んでいる虫の影。イカロスの神話をつくった人の頭の中には、こんなイメージは思い浮かばなかっただろう。火に近寄って死んでいく虫は

エッセイ優しさ息誰か走れ

エッセイという文章はある時間的長さを含意している。エッセイとは「試みる」ことだからだ。しかし逆に、瞬時に行われるような「エッセイ」もあるのではないか。このように? あるいはもっと別の? * 瞬間的なエッセイは即興に結びつく。ある光をつかみとる。ありえたかもしれないものと、書かれるものの時間差を限りなく短くしつつ、その二つのあいだに広がる可能性の余白を最大限に広げる。 * それは考えずに書くことに近づこうとすること。たまにはこういうのもいい。けれどもそんな行為は書くこと