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エッセイ優しさ息誰か走れ
エッセイという文章はある時間的長さを含意している。エッセイとは「試みる」ことだからだ。しかし逆に、瞬時に行われるような「エッセイ」もあるのではないか。このように? あるいはもっと別の?
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瞬間的なエッセイは即興に結びつく。ある光をつかみとる。ありえたかもしれないものと、書かれるものの時間差を限りなく短くしつつ、その二つのあいだに広がる可能性の余白を最大限に広げる。
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それは考えずに書くことに近づこうとすること。たまにはこういうのもいい。けれどもそんな行為は書くことに存在しない。ほら今、考えた。
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ひょっとすると、このタイピングだからこそ考えてしまうのか。たとえば手を使って紙に文字を書くときの戻れなさ。その制限はかえって、私たちを考えさせないように仕向ける。紙を使って書くことは走ることに似ている。逆に文字をこうやって打つことは車での移動に似ているのか。身体的な余裕が、心に遊びを生んで、そこに考えが生まれてしまう。即興が逃げる。
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あとで戻って編集できることの優しさ。その優しさが思考を誘う。紙の労力がたどりつかせようとする場所は、文字を打つことがたどりつかせようとする場所ではない。
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息を止めて書いてみる。そうすれば、紙に書くことに近づくかもしれない。最後に至るまで行ってみよう。苦しくなるまで。支離滅裂になるまで。長さがない。文は短く、脈も小刻みに。走るように、木を
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連続を断ち切るべきだと、なにかが囁く。そこから先になにがのぞくのか見てみたいとその人は言う。沈黙であってほしいと、喋りつづけながらだ。
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ここでたとえば一端考えも文字もおいておくとして、次にここに戻ってきたとき、なにが戻ってくるのか。果たしてそれは戻ってくるということなのか。次に書くのは誰なのか。待つことによって、消えてしまおう。いなくなろう。
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読み返して、書き直さなかったと言うときの。
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極度の集中は時間を断ち切る。息と息のあいだが鋭くなり、そこから飛び出すはずのものは、何なのだろう。走るように書きたいと願う可能性のかけらたち。そうだ、めざしている光を感じてから走れ。
雑文その1。このページとは違い、日常のちょっとした1コマに焦点をあてております。