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美しい引き算と罪深い足し算とその「和」と「差」

引き算の美学はあっても足し算の美学はない。すくなくとも日本におけるそれを知らない。私たちは要素を引いて余分と思われるものを省いていくときには、気持ちいいと思うが、逆に意図的になにかを足そうとすると、なんだか申し訳ないような気になる。罪の意識さえ芽生えてくる。

引き算によってできた空白によって美しさをつくりだすこと。これは日本においては「和」にたいする抵抗と服従のまじった両義的な応答だ。と、とらえてみる。「和」を乱さないために、どうすべきか。できるだけ言葉を、要素を、減らして相手の望むままに受け取らせておくことだ。静寂に限りなく近づこうとするなら。

静寂のざわめきに、空白の諸相に、敏感になること、なっていくこと。

実体ではなく実体が滅びていくことに情緒を見出すように、意味ではなく意味が滅びていくところに、……なにを見出せばよいのだろう?

書くことがそこで生んでいくものよりも、書くことがそこで滅ぼしていくものに、思いを馳せてほしい。このときすでに、この文章は「私は嘘つきだ」と言っているかのようだ。ここには足しながら引かれているもの、引かれながら足されているものがある。

引き算をするときは、足し算に思いを馳せる。足し算をするときは、引き算に思いを馳せる。そして恥ずかしいと思う。これが「和」を乱さないということであり、乱すということだ。

「和」があからさまに隠し持っている混沌に目を配れと、そんなふうなことを、どこかで誰かが言っていたことを思い出す。

引き算が従う「和」が、「和」であることによって隠したもの。「差」。これはかつてどこかで誰かが言っていたのを思い出した言葉、ではない。けれども、このような考えが誰かの意識をよぎった瞬間が、発された瞬間が、これが書かれるまでなかったとは思えない。

引き算の両義的な態度は、その葛藤の相手も、揺らめかせずにはいない。その葛藤の相手もまた、自分自身だ。

目の前にある空白は、何と何が和すかのようにして、何から何が差し引かれたかのようにして、そうなっているものなのか。こう書くことで、何かが滅びていくのか。






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