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富士山の日に

2月23日は、富士山の日なのだそうだ。

「君、不二山を翻訳してみた事がありますか」

夏目漱石『三四郎』新潮文庫、1986(改版)、P. 69 

富士山と聞くと、必ず思い出してしまうこの台詞。

漱石は、広田先生にこう語らせる。自然について語ろうとすると、みんな人間に化けてしまう。そうならない場合、その人間は自然に微塵も感化されていないことの証左である、と。

残念ながら、わたし自身はこれに対してまだ満足な解答をもちあわせていない。
ただし、2つの<模範解答>を目にした事ならば、ある。

ひとつ目の答えは、伊集院静さんの小説の一節。

「富士山の偉いとこは日本一高いいうとこだけやない。裾野が広いいうとこや。(中略)山はいくらたこうても槍がささっとるようなんはあかしまへん。こういうふうに裾野が広い山は森から谷へ、ええ水が出て大勢の生きものを育くみよんのや。あんたはんらも富士山のように裾野の広い人にならんとあかしません」

伊集院静『琥珀の夢(下)』集英社、2017、P. 252-253

これを日経で読んだのは2017年の夏だったと思うのだけれど、胸のすくような風が吹いたのを覚えている。

そしてもうひとつは、意外な場所で出会った言葉。

島根の山奥にある、足立美術館。
日本画と庭園を、1日かけてただただしずかに堪能するための場所。

いつもとりわけ長く足を留めるのは建物二階の展示。榊原紫峰、竹内栖鳳、伊東深水など、息を呑むばかりの作品がずらりと並んでおり、時の経つのも忘れてしまう。

ここに、ひとつだけ明らかに空気の違う作品がある。

横山大観の「神州第一峰しんしゅうだいいっぽう」。

こちらが思わず居住まいを正してしまう六曲一双。

越中立山の頂上から望む富士の荘厳な姿。
左隻には冠雪富士、右隻には雲海から立ち昇る真っ赤な太陽。

絵画の心得などあまりもち合わせていない素人のわたしにも、畏怖の念というものを感じさせてしまう作品。それがこの屏風だった。

大観は生涯に7,000点以上の作品を描き、そのうち富士を描いたものが1,500点ほどなのだそうだ。かつて銀座の画商が「大観といえば、日の出、富士山、白砂青松」とおっしゃっていたけれど、なるほどこういうことか、と思ったものだ。

この作品の解説には、大観のこんな言葉が添えられていた。

富士の名画というものは、昔からあまりない。それは形ばかりうつすからだ。…富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ、心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。それはまた気品であり、気はくである。富士を描くということは、つまり己を描くことである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かなければならぬ。私の富士も決して名画とは思はぬが、しかし描くかぎり、全身全霊をうちこんで描いている。…富士の美しさは季節も時間もえらばぬ。春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、いついかなる時でも美しい。いわば無窮の姿だからだ。私の芸術もその無窮を追う。

横山大観『私の富士観』朝日新聞、昭和29年5月6日

ああ、これだ。これが「不二山を翻訳する」という事なのだ。

わたしは呪文のようにこの言葉を唱え、それから夢中になって書き写した。
そして今日、Twitter に流れてきたこの投稿に思わず微笑んだ。

日本画は古い作品だけでなく、現代日本画家、下田義寬さんの描かれる<富士山>もまた味わい深くて、院展ではいつもじっと見入ってしまう。

しかし人はなぜ、どうしてこうも富士山というものに惹かれてしまうのか。

「富士山に比較する様なものは何にもないでしょう」

夏目漱石『三四郎』新潮文庫、1986(改版)、P. 69 

いつかまた、空の旅の窓辺から、不二山を眺めるときを夢見て。

── あなたは、不二山を翻訳してみた事がありますか?


◆参考図書

◆チョットついでに

ごめんなさい、今日は語源無しです。
音声配信は、月内再開に向け編集ガンバっていますので、のんびりとお待ちいただければ幸いです。

◆最終更新
2022年2月23日(水) 11:30 PM

※記事は、ときどき推敲します。一期一会をお楽しみいただければ幸いです。

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