富士山の日に
2月23日は、富士山の日なのだそうだ。
富士山と聞くと、必ず思い出してしまうこの台詞。
漱石は、広田先生にこう語らせる。自然について語ろうとすると、みんな人間に化けてしまう。そうならない場合、その人間は自然に微塵も感化されていないことの証左である、と。
残念ながら、わたし自身はこれに対してまだ満足な解答をもちあわせていない。
ただし、2つの<模範解答>を目にした事ならば、ある。
ひとつ目の答えは、伊集院静さんの小説の一節。
これを日経で読んだのは2017年の夏だったと思うのだけれど、胸のすくような風が吹いたのを覚えている。
そしてもうひとつは、意外な場所で出会った言葉。
島根の山奥にある、足立美術館。
日本画と庭園を、1日かけてただただ閑かに堪能するための場所。
いつもとりわけ長く足を留めるのは建物二階の展示。榊原紫峰、竹内栖鳳、伊東深水など、息を呑むばかりの作品がずらりと並んでおり、時の経つのも忘れてしまう。
ここに、ひとつだけ明らかに空気の違う作品がある。
横山大観の「神州第一峰」。
こちらが思わず居住まいを正してしまう六曲一双。
越中立山の頂上から望む富士の荘厳な姿。
左隻には冠雪富士、右隻には雲海から立ち昇る真っ赤な太陽。
絵画の心得などあまりもち合わせていない素人のわたしにも、畏怖の念というものを感じさせてしまう作品。それがこの屏風だった。
大観は生涯に7,000点以上の作品を描き、そのうち富士を描いたものが1,500点ほどなのだそうだ。かつて銀座の画商が「大観といえば、日の出、富士山、白砂青松」とおっしゃっていたけれど、なるほどこういうことか、と思ったものだ。
この作品の解説には、大観のこんな言葉が添えられていた。
ああ、これだ。これが「不二山を翻訳する」という事なのだ。
わたしは呪文のようにこの言葉を唱え、それから夢中になって書き写した。
そして今日、Twitter に流れてきたこの投稿に思わず微笑んだ。
日本画は古い作品だけでなく、現代日本画家、下田義寬さんの描かれる<富士山>もまた味わい深くて、院展ではいつもじっと見入ってしまう。
しかし人はなぜ、どうしてこうも富士山というものに惹かれてしまうのか。
いつかまた、空の旅の窓辺から、不二山を眺めるときを夢見て。
── あなたは、不二山を翻訳してみた事がありますか?
◆参考図書
◆チョットついでに
ごめんなさい、今日は語源無しです。
音声配信は、月内再開に向け編集ガンバっていますので、のんびりとお待ちいただければ幸いです。
◆最終更新
2022年2月23日(水) 11:30 PM
※記事は、ときどき推敲します。一期一会をお楽しみいただければ幸いです。
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