短歌と私と「私」の貌と〜日本現代美術私観を見て[日記と短歌]24,11,15
おしよせるイマを薄目でやり過ごす踊るならでもこの手を取って/夏野ネコ
もうすっかり会期は過ぎてしまったのですが、東京都現代美術館で行われていた展覧会「日本現代美術私観」を見てきて、そしたら短歌について考えてしまった、って話です。
この展覧会は高橋龍太郎という精神科医の個人コレクションで、1960年代から現代に至るまでの日本の現代アートを、n=1の単眼的「私」視点であるからこそ、表現者である「私」たちの連なりが、時代性とともに1本の線として俯瞰できる。と、そのような道筋になっていました。
美術に関してはもうすっかり現役ではなくなってしまった私ですが、それでも作品の持つオーラがビシッと体に当たってくる感覚は、残っていると思う、思いたい。
なんて気持ちでしたが、そのように凡庸な「私」的鑑賞態度など初っ端から木っ端微塵になりました。「私」的表現の「私」的コレクションであればこそ、見る側の「私」も問われるんですよ、これ。怖い。
摩耗した言い方ではありますが各所で刃物を突きつけられた感じです。
で、思います。徹底して「私」を突き詰めていった先に鋭く時代性を帯びていくのは文芸も同じで、むろん短歌もそうだろう本当にそうだろう、と。
私的であること。これは普遍性を獲得するための最初にして最大の一歩であって、ひたすらに「私」を掘り込んでいくめちゃくちゃにしんどい作業が、そうよ芸術ってものなのよ、と再認識した次第です。
そこに自分が刻まれていない作品は、どんなに優れてい(そうに見え)てもどうなのよ、なのだし、逆に自分の映し方ひとつで、全然評価されなくとも私的に大切な作品になりうる。この非対称は短歌に通じていると思ったのです。
一方で批評性を問われる現代アートと異なり短歌というフォーマットが持つなぜだかナルシズムとの抜群の相性の良さは、「私」の見つめようで何かが決定的に分かれるな、とも思いました。
そんなふうに考えながら、会場を後にしたのでした。