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うたは読まれてこそ完成するのかも [日記と短歌]23,4,26


海だねと喩うネットにそれぞれの太陽をもつ歌の島々/夏野ネコ


少し暮らしが落ち着いてきて、ゆっくり本を読んだりもできるようになりましたので、名著と名高い玉城徹さんの「茂吉の方法」を最近ちょっとずつ読んでいます。

短歌を作る方には釈迦に説法ではありますが、斎藤茂吉の作品より133首を取り上げつつ、作者の思いやその時々の境遇、作歌背景などをほとんど考慮「せず」、ただ歌のありようを俎上にあげ批評していく、非常にストロングスタイルな本です。

たとえば作者が初出の出来を嫌ってか後年改作したものなども、改作経緯などちっともお構いなしに冷徹に歌とその構造のみを評していたり、評価の定まった秀歌よりも全く別の歌に、ひょっとしたら作者も気づいていなかったかもしれない美しさを読み取ったりするのです。
読んでいて何かこう、背筋が伸びますねこれは。

茂吉さんの短歌を読むだけでも体力を要するのに、それに輪をかけて厳しく激しい芸術批評と解説がセットになっているので、毎日少しだけ、それこそお煎餅を齧るようにジワジワ読んでいます。

で思いました。
短歌という圧縮された表現形式においては、作者が31文字にエンコードした物語を読者は自由にデコードでき、その「読み」で作品世界が多様に拡張されるわけで、芸術全般にそのような傾向はあるにせよ、短歌は特にその「読まれることで完成する」傾向が強いように改めて思います。読む人の数だけ並行宇宙があるようなものです。そしてそれは、読まれることで多様な完成の形を見ることは、とても、こう、素敵なことのように思うのでした。


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