自由度が少ないからこその心地よさ
こんばんは。ナツミです。
「自由であること」は、わたしにとってかなり大切な価値観です。
物理的に自由がきかなかったとしても、心や発想は自由でありたい。
すべてを自由にできなくても、できる限り自分の自由に決断したい。
多くの人が思うことかも知れません。
けれど、大人になるにつれて、自由度は奪われていきます。
それを歯痒く思う日もあるけれど、実は心地よく思う日もあったりします。
関わる人が増え、責任が増える度に自由度が減る
もしも自分ひとりで生きているなら、比較的、自由でいられるのかも知れません。
誰かのために予定につき合ったり、誰かのために家に帰らなきゃいけなかったり、何かのために別の何かを犠牲にしたりすることは、そんなに多くないのかも知れません。
けれどみんな、何かしらの繋がりがあって、繋がりがあるということは、意識していてもいなくても、何らかの役割を担っているのだと思います。
会社を支えて働く人、先生やご近所の人、誰かの友達、母、父、妻、配偶者、子供でさえもきっと親孝行する役割があります。
その役割が増えるほど、誰かや何かに縛られて、自由度は減っていく。
大人になると自由度が減るような気がするのは、役割が増えているからでしょう。
自由度が減るのは、誰かに何かに関われている証
そう考えてみると、自由度が減るほど、役割が増えているということ。
役割が多いほど、つまり誰かや何かの役に立っているということ。
そう考えれば、それはそれで幸せなことだなと思います。
自分の裁量で決められないことは、確かに苦しかったり歯痒かったりすることもあります。
けれどそれよりも、自分が誰とも関われていなかったり、何の役にも立っていないことを考える方が、よっぽど苦しい気持ちになります。
そして自分の自由度にこだわるあまり、周り気持ちや状況を考えられないほうが、よっぽど心が豊かではない気がします。
縛りのある中で何を生み出すか
役割や立場が増えていくと、自分にとって難しい状況に陥ることも比例して増えていく気がします。
そんなときに、自由度の低い中で、難しい条件を踏まえつつ、課題をクリアできたとき、何だかとても爽快な気分になるのです。
簡単ではないし失敗もあるのだけど、それでも何とかやり切ったということは、試行錯誤したり紆余曲折があって、最終的に何かクリエイティブな工夫や策を生み出したということ。
そして役割や立場、つまり周りの(当たり前に寄せられる)期待に応えられたということ。
たぶん条件がなく、自由に自分のやり方でクリアしていたら、そんな爽快感は味わえないでしょう。
自由度が少なくなったからこそ感じられる、大人としてちゃんとやれた、という気持ちも入り混ざった、心地よさみたいなもの。
それを感じると、大人になるのも悪くないな、と思います。