再解釈という人間だけに許された遊び。
時代劇のような昭和の固定観念から脱却し、
令和の価値観にアップデート作戦中!
こんばんわ、ナツキのパパです。
都合よく再解釈するのは人間だけに許された遊び。
自由な自己認識の獲得こそ真の自由。
これは誰の言葉だったか忘れたけれど、おそらくカントとかその辺りの著名な哲学者の言葉の引用だったかと思う。
初めて目にした時に「なるほどそうだよね」と腑に落ちて、記憶に定着した言葉だ。
人間の特異な能力の一つは、現実を都合よく再解釈することが出来ることだってのは、深く共感できるよね。
この能力は、ボクたちが抱く意識や認識の限界に関連してるし、一種の知的遊びと言えると思う。
現実を自分たちの都合に合わせて解釈し直すことで、新たな視点や洞察を見つけられるし、創造性や哲学的な洞察を深めることも出来る。
一方で、「自由な自己認識の獲得こそ真の自由だ」という言葉は、人間の内面的な自由を強調していると思う。
自己認識とは、自分自身の本質だったり存在に対する深い理解だと言えるし、これは単なる身体的な制約や社会的な枠組みを超えて、精神的な自由を追求することも指している。
つまり、この2つの主張を結びつけると、ボクたちは現実の再解釈を通じて自己認識を深め、真の自由を追求する道を見出すことができる、と言えるんじゃないだろうか。
もう少しカッコよくいうと「現実のパズルを解くことで自分自身の謎を解き明かし、心を束縛する柵から抜け出し真の自由を手に入れよう!」といった風になるか?
・・・逆に、厨二病感が溢れる陳腐でダサい言い方になった。
パンチライン的なのが浮かばないのも、最後を上手く締められないのも毎度のコトだけど、この辺は凡人の我が身の哀しいトコだ。
あぁ、この現実を再解釈すると「自身を凡人というのは自身の不勉強や不努力への言い訳になる」という自己認識に辿り着いたし、ボクが追求するべき自由への道は「本を読め」かも知れない。