『もの喰う女』:感想 ―「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ。」
武田泰淳の『もの喰う女』という小説は、一度読むと、忘れられないような強烈な印象を残す。戦後間もないころに発表された小説だが、古臭くなく、短いのであっさり読めてしまう。そして作中に登場する食べ物がどれもおいしそうで、気になる。ー「ドオナツ」、「豆ヘイ糖」、「ハッカ菓子」、「アイスクリーム」、「ラムネ」、「渦巻パン」、「カツレツ」、「寿司」等。
しかし、食べ物の描写に気をとられていると、突然、わけのわからない結末に突き当たって茫然とさせられる。ただの食欲旺盛な恋愛小説かと思っていると、痛い目にあうのだ。
この小説は、一人の人間が得られる「幸福」が何なのかについて、悩み、苦しむ過程を描いているのではないだろうか。「理想を達成するという幸福」と、「生活のなかにある幸福」、「理想」と「現実」を、二人のヒロイン「弓子」と「房子」にそれぞれ重ねている。そして無気力な主人公はその間をさまよう。そして、最後には「現実」的なヒロイン「房子」に、ある意味敗北し、自分の無力さに打ちひしがれる。
ちなみに、現代小説のベストセラーにも、「一人の男性が、二人の正反対の性格を持つ女性に同時に惹かれる」という本作と同じ構図を持つものがある。それは、村上春樹の『ノルウェイの森』だ。村上春樹本人が本作につけたキャッチコピーは「100パーセントの恋愛小説」。(wikipedia)
ノルウェイの森についてはあまりくわしくなく、山ほどある書評も全く読んでいないのに失礼かもしれないが、とても有名な作品なので、必要があれば引用させていただきたいと思う。
ポイント
・『もの喰う女』の主人公は「T」(おそらく作者自身の名前から)。二人の女性と付き合っている。
・付き合っている女性の一人、「弓子」は結婚の経験もあり、大柄な、ひどく男をひきつける顔だちで、他の男とのつきあいも多い。新聞社で働いている。Tは弓子に惚れ込んでいて、会社まで行ったりしてつきまとっている。
・「房子」は小柄で、長い黒髪に白い肌、少女のような印象。喫茶店で働いている。Tは弓子との関係に疲れ、房子と会うようになる。
・物語は、食欲旺盛な房子との食べ歩きデートが大半をしめる。弓子は食欲不振で、食べ物自体に全く興味が無い。Tもあまり食欲が盛んではないが、食べ物をおごる事で房子が喜ぶので、痛快に思っている。
・ある夜、Tは房子を家に送る途中、「オッパイに接吻したい!」と急に言ってしまう。それを笑って許す房子の素直さに対し、Tは恥ずかしく、重苦しい気持ちになり、友人の家にころがりこむ。「食欲、食べる、食欲」とうつぶせになってうなり、すすり泣く真似をする。(終)
・『ノルウェイの森』の主人公は「ワタナベ」。自殺した親友の彼女である「直子」を好きになるが、直子は心を病んで入院する。ワタナベは直子への思いを抱えたまま、大学で出会った「緑」にもやがて惹かれるようになる。
・静と動の関係 ― 静(弓子、直子)←→動(房子、緑)
①房子の食欲があらわすものは何か。
もの喰う女においては「食欲」が重要な要素となる。
房子はとにかくよく食べる。その一つ一つのシーンが愛おしい。「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ。」という彼女の言葉は、単純明快で微笑ましくもあるが、同時にすべてを飲み込んでしまいそうな底知れなさも感じさせる。
彼女は私の方へ横顔を向けたまま、指先でつまんだ上等のドオナツに歯をあてるのです。よく揚った、砂糖の粉のついた形の正しいドオナツを味わっている。その歯ざわりや舌の汁などがこちらに感じられるほど、おいしそうに彼女はドオナツを食べます。
恋愛感情と、食欲とがないまぜになっているのだろう、と、Tはみている。
房子は酒もよく呑むが、決して人を不快にさせるようなことはない。また、好き放題に高いものを注文するというようなこともない。Tに何か買い与えてもらうときは、必ず一番安いものをねだるのだ。
ある日のデート中、とんかつを食べ、二人はすし屋に入る。彼女が案内したその店はいかにもわびしい場所で、壁には外国の映画俳優が食事をしている光景をうつした写真が貼ってあった。日光で変色した「いかにも人生の幸福を象徴する如き多種多様の白人飲食の写真」と一緒に、のり巻と卵の寿司を食べるのだった。
彼女の幸せそうな食べっぷりに引き込まれ、また、自分にはない素直さ、迷いのなさをもつ彼女の強さに、飲み込まれそうにもなったのかもしれない。
Tは、房子自身を食べようとする。
トマトジュースのかかった厚みのカツレツと持参のパンで日本酒を二本飲みました。「おいしいわね」と彼女は興奮して繰りかえしました。「接吻したいな。いい?」とたずねるとうなずきました。「だって、何でもないもの。そんなこと」と横ずわりにした足を少し引きよせていました。
このように、あっさりと接吻をすることを許されたTは、その従順さに驚きを感じたという。
送っていく闇の路で、私はこの前より一層乱暴に彼女を愛撫しました。「怒る?」ときくと「女って、こんなことされて怒るかしら」と、彼女は私の自由にさせていました。…(中略)…彼女の家へ曲がる横丁の所で私は急に「オッパイに接吻したい!」と言いました。それがこんな場所で可能であるとか、彼女が許すとか、それら一切不明の天地混迷の有様で、その言葉が、嘔吐でもするように口をついて出てしまったのです。すると彼女は一瞬のためらいもなく、わきの下の志那風のとめボタンを二つはずしました。
そして、Tは「少し噛むようにモガモガと吸い」、すぐにやめて、「何か他の全くちがった行為をしたような」「あっけない、おき去りにされた」気持ちになるのだった。T本人にとっても、この出来事はよくわからなかった。
「あれは何だろうか。彼女の示したあのすなおさは何だろうか。あれは愛か」と私は揺れる身体をわざと揺すらしながら考えました。「もしかしたら、あれは、御礼なのではないか。とんかつ二枚の御礼なのではないか。彼女はまるで食欲をみたす時そっくりの、嬉しそうな、又平気な表情をうかべていたではないか。食べること、食べたことの興奮が、乳房を出させるのか。ああ、それにしても自分は彼女の好意に対して、何とつまらぬ事しか考えつかぬことだろう。まるで俺は彼女の乳房を食べたような気がする。彼女の好意、彼女の心を、まるで平気で食べてしまったような気がする・・・」
房子はTの求愛を一切拒まない。むしろ笑顔で受け入れる。これを、Tが「とんかつ二枚の御礼」なのではないかと思ってしまうのは、寂しい考えだ。房子は、おいしい食事を与えてくれる人になら誰でもこうするのだろうか。それは違うと思う。ただ、房子がTを好きなのかどうかは、ほとんど描かれていない部分なので、もしかしたら、実際とんかつの御礼かもしれないが。
彼女は、とにかくなんでも食べ、飲み込んでしまうのだ。たとえば、真面目に働いてもずっと貧乏であること、稽古の時間もとれず、女優になりたいという夢がかなわないこと、付き合っている人には本命の女性がいること。…そんなことより、食欲が勝る。おいしいドオナツをつまんで口に入れることの方が、大事なのだ。そうやって日々を生きている。あらゆる不満や不安、わからない事を綺麗に飲み込んでしまう。
そういう彼女の真似をして、Tも、彼女を食べようとしたのかもしれない。しかし、それはTにはまだ不可能だった。「おき去りにされた」気持ちになるのは、当然だ。房子は常に、Tよりも真剣に「食べて」いる。房子は「食べられる」側ではなく「食べる」側の人間だ。Tは房子に、圧倒されてしまったのではないだろうか。
房子の食欲は、弓子やTよりもずっと強い。また、強いだけではなく、生きるために、懸命に食べている。例えば、Tは、固いからといってアイスキャンディーを食べかけのまま捨ててしまう。房子だったら決してそんなことはしないだろう。房子にとって食事は、何よりも真剣に取り組んでいることなのだから。
類例として、ノルウェイの森の緑も、食事に対して真剣だ。
一番印象に残っているのは、ワタナベを実家に招いて、関西風のだしがきいた、本格的な和食料理をふるまう場面。「ぼってりとしただし巻き卵」など、とてもおいしそうで、よみながらお腹が空いてしまった。(再現動画をみつけました)
緑は、栄養や味付けに無頓着な、自分の家庭の食事に嫌気がさし、お小遣いの下着代を削って、料理道具を買い集めたという。そして本を見て自力で料理を学んだのだ。この食への執念は、房子のそれと近いものといえよう。
②『もの喰う女』の弓子、『ノルウェイの森』の直子―彼女らの魅力について
Tは弓子を「都会のくずれた精霊のような女」と評しながらも彼女を愛す。そしてワタナベは、直子が心を病んだ後も好きでい続ける。
この、儚げな美人の魅力が、これまで正直よくわからなかった。どうしてこんなに、主人公は彼女らに心惹かれるのか。
弓子も直子も、さんざん尽くしてくれる男主人公のことを「一切」愛さない。そんな人間関係ってあるのだろうか。そして、男主人公の方も、なぜ自分に対し、無関心な女性を愛せるのだろうか。
ただ、もし、恋愛相手としてだけではなく、男主人公にとっての「理想」を女性に置き換えたものだったとすれば、それも納得はいく。
弓子は、Tにとっての理想であり、特別で完璧な存在で、普通の女とは違う。ワタナベにとっての直子もそうだ。現実に適応しきれず、いつも神経をすり減らしながら生きている彼女らは、男主人公のなかの、理想の自分とつながっているのだろう。自分の中の理想像を投影しているから、彼らは彼女らに憧れ、執着してしまうのだ。どれだけ報われなかったとしても。
Tは、「弓子とのカミソリの刃を渉るような」交際に疲れて、房子に会いにいく。ワタナベも、直子の病状が悪化していくなかで、緑にどんどん惹かれていった。
ちなみに武田泰淳の妻は、武田百合子である。そして、房子のモデルは、百合子なのだという。
つまり、小説の中では語られていないが、結局T(武田泰淳)が選んだのは、房子(武田百合子)ということだろう。
そうすると、Tは弓子(理想)への恋を断ち切り、房子(現実)の生き方を選んだといえそうだ。食欲や性欲を全肯定し、現実に即して生きていく、房子の生き方に。
物語の最後、Tは泣き真似をしながら「食欲、食べる、食欲」と繰り返す。それは、房子の価値観をすんなりと受け入れ、認めたというよりも、まるで敗北したかのような印象を受けた。
また、『ノルウェイの森』においても、結局直子は自殺し、その後ワタナベは緑に、しっかりと向き合う。不可抗力が多少はたらいているとはいえ、最後にワタナベが選んだのは、直子ではなく、生命力にあふれた緑だったのだ。
ではなんのために弓子や直子は、この恋愛に登場したのだろうか。恋敵としては、登場頻度も少なく存在感にかける。
私は、主人公の成長には、理想と現実の間にさまよって悩み苦しむという過程が必要で、それを理想的・現実的なそれぞれ二人のヒロインに負わせたものだと考える。単なる恋愛小説だとおもって読んでいると驚かされるというのは、そういうことだ。
③物語の冒頭に込められた意味
物語の大筋はすでにみてきたが、改めて読み返すと、冒頭において、Tは次のように感懐を述べている。
よく考えて見ると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただ単に少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。つきつめれば、そのほかにこれといった立派な仕事一つせずに歳月は移り行きました。…(中略)…社会民衆の福利増進に何ら益なき存在であると自覚した今となっては、そのような愚かな、時間と神経の消費の歴史が、結局は心もとない私という個体の輪郭を、自分で探りあてる唯一のてがかりなのかもしれません。
「今となっては」という語に注目したい。彼は、この冒頭文を書いた時点では、すでにこの物語を通過している。一連の出来事をイニシエーションとし、「社会民衆の福利増進に何ら益なき存在という自覚」を得ることとなったのだ。そしてその代わりに、「私という個体の輪郭を、自分で探りあてる」ための手がかりを見つけた。
たとえば革命に身を投じたりして(正直あまりイメージがつかないが)、全身全霊で社会、または世間の役にたつこと、それは理想だ。しかし生きていると色々な点で思い通りにいかないものだろう。なんとなく過ぎていく時間を、ダメな自分と過ごすしかないときもある。そういう自分と付き合っていくには、おいしいものを食べたり、酒を飲んだり、そうやって生活の歓びを愛することもきっと欠かせない。
Tは、この冒頭文を書いた時点では、理想通り生きられない自分のことも、生活にだけ目を向けて生きることも出来ない自分も、受け入れているようだ。ただ懸命に、愚かに生きるしかないと。
つけたし
これは小説の話で、実際の世界では、女性(男性も同じ)はそんなにも単純化できる生きものではない。例えば一人の女性の中にも、正反対の二人のヒロインは内在し得るだろう。弓子のように神経質な、しかし上品な、「女神」然とした一面。そして房子のように楽天的で、欲に忠実で、親しみやすく、「生き物としてしぶとい」というような一面。ただ、これを持ち合わせた一人の女性との恋だとテーマがわかりにくいので、二人のヒロインに分裂させたのかもしれない。
房子のモデルである武田百合子は、この小説を気に入っていなかったらしい。その気持ちはよくわかる。自分の単純な一面を拡大した房子が、全てだと思われるのは癪だろう。
それから、もしも『もの喰う女』や『ノルウェイの森』が、男女逆転した場合、どんな結末になるだろう、と思った。二人の正反対の男性に、揺れる女性。なんだか少女漫画みたいで、途端につまらなさそうになる。
私は、房子や緑に近い、世俗的な人間だ。できるだけ節約して、ご飯を作って食べ、寝たら大体のことは忘れる。でも、こうやって生活を第一に生きていていいのかとよく思う。例えばコロナが流行して外出を自粛するようになり、食事くらいしか新鮮な楽しみがなくなった時期、生きるために生きるのは、やっぱり辛いと思った。
そういう葛藤は、別に男女関係なくあると思う。
さいごに、ここまで、拙い感想を読んで下さってどうもありがとうございました。
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願いいたします。励みになります!