哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで 斎藤哲也編
上野修、戸田剛文、御子柴善之、大河内泰樹、山本貴光、吉川浩満
斎藤哲也編 NHK出版新書
9月は哲学史入門月間です(テーマを絞った積読消化ともいう)。
今回読んだのは『哲学史入門』の第2弾。
17世紀の代表的な哲学者から、イギリス経験論、三批判書を中心にカント哲学、ドイツ観念論とヘーゲルまでがカバーされています。
哲学にかんして一家言のある人はよく、「入門書や解説書なんかより一次文献を読め」というオソロシイことをおっしゃいますが、哲学の徒にあるまじき権威主義だと思ってしまいます。楽しく哲学や思想について教えてくれ、世界の豊かさに気づかせてくれる入門シリーズのありがたさを享受する市民が増えるのがなぜいけないのでしょう。私たちのような底辺読者の、いつの日か脱皮して原書が読めるようになりたいという憧れは、無害であるばかりではなく、世界の空気を少しは清らかにしていると私は信じます。
さて哲学の解説書を読むときに大切なのは、各時代の潮流、そして各哲学者の考えの核心をつかもうとする姿勢ですが、それにもまして大切にしたいのはたとえ嘘くさくとも「わくわく感」を持続させることであります。哲学史の入門とはいえ、ある程度の分量や冊数を読まないと、自分が抱えている問題に対応してくれそうな哲学の概念や思想に出会うことは難しいからです。
インタビュアーで編者である斎藤哲也氏による各章の「イントロダクション」は、これから始まる楽しい哲学談議に仕掛けられた謎や驚きをちらっと予告してくれて、どんな難解な議論が登場しようともひるまず最後まで読もうという気になります。しかもこれがじつは各章のテーマや重要な問題提起でもある。つまり本書の作りによって、哲学はそもそもスリリングで面白いものなのだということがわかるのです。入門書として最高です。
それでは各章について印象に残った点を挙げてみます。
第1章は17世紀という転換期の哲学についてです。以前私はデカルトの『省察』を何週間もかけて独学し、玉砕寸前状態になりました。「神の存在証明」の「神」の概念で思い切り躓いたからです。それまで合理的に考察を進めてきたデカルトがいきなり当然のように「神」を持ち出すので混乱したのです。解説を読んでもピンときません。SNSで教えてくださった親切な方もいらっしゃいましたが、やはり「神という特権的立場」に割り切れない思いをしました。ところが上野先生は軽~くこう言います:
「これも17世紀の特徴ですが、神がしっかりと「いる」んですよ。18、19世紀と時代が下るにつれてだんだんどうでもよくなっていくんですけどね。でも17世紀は「マジ、神いるから」という感じがあるわけです(笑)」
……誰かそれを早く言ってよ!
とにかくこの章で17世紀という時代の哲学がどんな背景のもとで発展していったのかクリアになります。(すごい先生はシンプルに核心をつくのですね)
第2章のイギリス経験論の戸田先生は、哲学の流派を大陸合理論やイギリス経験論などという区分に分けてしまうことのもったいなさ、自分の問題意識から時代を隔てたさまざまな考えを学び、自分なりのストーリーを組み立てていくことの大切さを説いています。私が興味を持っているヒュームについては少なめ、バークリやリードについての議論の比重が高いです。
第3章は、今までご著書を読んだことがある御子柴先生のカント論です。「よく生きること」とはどんなことかと考えたとき、私はいつも結局カントの道徳法則に行きつきます。カントの平和とその実現についての考えがとてもしっくりくるのです。しかし三批判書はとてもハードルが高く、『純粋理性批判』を英語版でぼちぼち読んでいる状態。邦訳だと、日本語でドイツ語を読んでいるようで、乗り物酔いみたいになるからです(どなたかおすすめの邦訳を教えてください)。それはさておき、カントの用語(理性、悟性、感性、超越論的、超越的など)の解説は目からウロコもので、三批判書の相互関係もよくわかりました。一番読みたいのは『判断力批判』。美の伝達可能性はつまり道徳の伝達可能性にも通じる、という議論。ハンナ・アーレントが政治判断力を論じるときにこの理論を応用していることは有名ですよね。カントについてはこの章を読んだだけですでに圧倒されていますが、くじけるものか…。
第4章のタイトルである「ドイツ観念論」。これはあまり適切な名称ではなく、1800年前後にドイツ語圏で活躍した、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルという同時代人による哲学のことだと大河内先生はおっしゃいます。つまり「ヘーゲルがゴール」、ではないのです。たとえば、フィヒテによる「自我」のとらえ方(主体と客体は排他的な二者択一の関係ではなく、それぞれを全体の部分として両立可能なものであるということ)、シェリングの自然哲学(「自然」を出発点として自我を持つような意識が生み出される)、ヘーゲルの「先立つものは論理(概念)構想」(論理学が外化して自然哲学になり、これが内化して精神哲学になるという上昇)……これらがほぼ同時に展開されたとのこと。また、当時起こったフランス革命が彼らの哲学に与えた影響は重要です。「自我の自由と他我の自由」をどう両立させるか、が哲学の命題になりました。
ヘーゲルの弁証法についても腑に落ちました。弁証法とは、自己否定的な運動、つまり原理AとAにあてはまらない原理Bの両方を行き来しながら調整することです。両者の関係を相互的な運動として、AとBが一致するところまで進めていく。ヘーゲルの弁証法はのちに硬直化した理解がなされるようになりますが、じつはフランクフルト学派の議論に近いそうです。啓蒙主義を基礎としたフランス革命がのちに恐怖政治を生んだことを指摘したヘーゲルのように、啓蒙の理念がナチスという「野蛮」を生みだした、とホルクハイマーやアドルノは考えました。また、ジュディス・バトラーの「脱目的」もヘーゲルを継承した考え方で、「固定的な何かに縛られず、常に自己を否定し、自己を超えていくということ」。彼女の「クイア」概念とは、男女の別にもうひとつカテゴリーを作ることではなく、「攪乱」というアプローチによって「概念の枠組みを常に揺さぶり、それによって枠から零れ落ちてしまうような存在を救おうとする」ことなのです。これぞ私の求める世界観…また積読が増えそうな予感に震えております。
特別章の山本・吉川対談も深~いのに軽やか(誰にも真似できないお二人の芸風)で、ここだけ最初に読んでも学びのモチベーションが上がります。