とは何かとは何か


「これからの哲学が、これまでの哲学が題材にしてきたものばかりを題材にするとは限らない。

俺は哲学者だが、『とは何か?』という質問をことさらする気は特にない。

なぜその問いが必要なのか。その問いはそんなに重要なのか。その問いはそんなに決定的なものか。それとも、『さして重要でもないだろうが、つまみをつまむ程度の気軽さで問うてみた。一種の戯れだ。』と考えているのだろうか。


『とは何か?』は、言い換える、ないしは説明することを念頭に置いた問いだと思う。

雪とは何か?
因数分解とは何か?

『雪は雪である。』は答えになっていなくて、何か別の観点から言い換えられる必要がある。寒い日に空からたくさん降ってくる白いふわふわの氷(説明下手すぎw)。

チョコレートの味ってどんな味?
コーラってどんな味?

これらは難しいだろう。食べた人にしかわからない。これらを食べたことがない人にその特徴を説明するのは至難の業だ。

私は誰か?

これは何を説明したら答えになるのか。
名前、生年月日、性別、職業、趣味、好きな食べ物、好きな音楽、etc.
これらを答えたら私は誰かであることになるのか?

私は誰かであるのだろうか?

言い換える必要の有無。これがポイントだと思う。日常における、身元の確認が必要な具体的なシチュエーションなどでは、上記のような事柄を答えれば人は誰かであることが客観的に認められるだろう。常識の問題だ。

ところが、『〜は誰か?』という問いを、そのような具体的なシチュエーションにおける実用的な目的で問うのではなく、いたずらに抽象的に問う場合、その問いの意味や重要性、必要性は途端に危うくなる。

私は誰かである。
人は誰かである。
人はみな誰かである。

えらく抽象的であり、言ってしまえば、詩的である。『誰か(である)』という言葉が実用的な文脈と意味合いを捨て、それ自体で(単体で)語られた。


プラトンの著作『テアイテトス』では、『“知る”とは何か』という問題が延々と議論されている。『誰かであるとは何か』という問いは、それによく似た哲学的問いだ。

しかし、良識を以って考えれば、具体的な文脈と目的を離れた『誰か(である)』という表現は、言葉の上だけでの悪戯[いたずら]的な表現であることが、やはり理解できるのである。“人はこれが哲学的な問い(表現)であることに気づく”。

エミネムの『My Dad’s Gone Crazy』という曲の冒頭のラジオの台詞に『Who’s your daddy?(君のお父さんは誰?)』というものがある。子供に語りかけるラジオ番組の優しげな口調が突然深刻になり、ナンセンスな問いをぶつけて子供をからかうわけである。

『僕のお父さんは誰なんだろう? 誰なんだろう......?』と悩み、苦しむ子になって欲しいという、悪意ある架空のラジオ番組というジョークである。

この問いには、なんてことない、答えがある。

『お父さんはお父さんだ。』

それでいい。“誰かとかいう問題ではない“。不快感をあらわにしながら、しかし正々堂々とそう答えてやればいい。悪意ある哲学は良識で撃退できる。

“誰か(である)という問題ではない”。もはやこれが一つの哲学である。誰かという問いは不適切であるどころか、誤解を恐れず言うならば、”間違ってさえいる“。


何かが何かであるという表現においても、これと似たことが起こりうる。あるものが『(それ以外の)何かである』ことが、そんなに重要ではない、という場合・状況、そして、そういう考え方。

『(〜とは)何か』という問いは簡単に言語表現を成り立たせてしまうかに見える。問いを、思考を成り立たせてしまうかに見える。『(〜とは)何か』と問えば、たしかに何かを問うている気分になることができる。みんなよく使っているし、言い換えたり説明したりすることは、言語表現活動のうちでも少なくない部分を占めるような気もする。哲学とは何か。

ーー哲学とは何か? という問いがもっともくだらない。ーー

それ自体で存在する。それ自体で理解する。

『そのような文脈で、そのような仕方で、その文章ではその言葉が使われている。その語り手にとって、その言葉(概念)はそのようなものなのだろう。知らないが。そのようなものでしかない。それ以上でも以下でもない。

ーー何であるかは、最後に分かるーー
(=定義ありきではない)

*ここで言う最後とは、抽象的な時点のことを指す。どこをその時点と見てもかまわない。


(ある言葉について)意味が先か、用法が先か。

これは、どちらかであるという簡単なものではないだろう。」


この文章は何か?

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