【閲覧微注意】自分のための文章講座

「自分のための文章講座」ってものにセンスを感じる。講座って普通他人のためにするものですよね。技術を持たない他人のための。

自分に技術があるなら自分自身に講座を開く必要もないはずだ。それとも、再確認みたいな意味合いなのだろうか。そうかもしれない。

いや、それもあるが、ちょっと違う。まだ習得していないが、自身で何か予感された新しい技術みたいなものを、もう一人の自分があたかもそれに熟練しているかのように自分に語りかけるという謎の遊びといったところだ。あんまり楽しくなさそう? 超楽しいよ。別人のフリをすることだから。一つの新たな文体になり得る。

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<主張する語り手は鬱陶しい>

まずこの点を考えたい。自分に言い聞かせたい。この点を自分で再発見したい。

そもそも、人付き合いではある程度遠慮して、自分の言いたいことを何でもかんでもズケズケと言うような関わり方はしない。でなければ、自分勝手な奴と思われる。自分勝手な奴になってしまう。

この時点で答えは出ているようなものだ。難しく考える事はない。つまり、

一般に向けた文章は、個人的な断定を排するべきだ。(この文章はそれを満載するが。理由は一応後述。)

個人的な断定を排さないと、途端に読めたものでなくなる。

しかし......。文章は往々にして断定や独断を含むし、そんな簡単な問題じゃない気がする。

文章はそもそも判断の披歴大会みたいな性質があり、読者が持っていない価値(知らない情報や思いつきにくい言い回し、叙述など)を提供するという、自身が価値あるものとして読者に迫るという性質がある。

(手紙や日記といった、個人性のある記述はこれに含まない。家族の「お腹すいた」といった言葉は、個人的に関係のある間柄の人にとっては重要な意味のある言葉だが、世間一般に対しては何ら価値(特筆性)のある言葉ではない。)

noteでは、一般的な価値を目指して書かれたものでも、個人的な記述として読まれることがほとんどで、感想やコメントというのは、言ってしまえば、ほぼすべて友人からである。個人的な記述として受け取られる。

一般に価値を提供する目的で、つまり客観的に特筆性のある文章を書いているつもりならば、それはいわば世間に対する挑戦である。「俺(の文章)には価値がある。見てみろ」と迫るものだからだ。当然、値踏みされるだろう。というより、自分から値踏みされに行っている。そして、そんな挑戦、迫り方は、その......はばかるべき驕った言い方をすれば、読解力のある読者からすれば眉唾なわけである。「ほ〜お、お前の文章が? 見せてみろや」と思うわけである。口は悪いが、ニュアンスはそんな感じだろう。

ま、それはいい。読解力のある読者が「くだらん」と思っても、別な人が別な風に思ったとしても、そのことは今どうでもいい。今問題なのは、文章のクオリティではなく、性質の方だ。

一般に向けた文章は価値の披歴大会という性質があり、文章というものが根本に持つこういったこれ見よがしな弁論家的な態度には、友人間のコミュニケーションとはまるで正反対の、上下関係にも似たーーあくまでも似たーー支持する・されるの関係がある。とさえ言っていい。やんわり言えばファンかな。

僕が、老若男女の見ているこのnoteという場で、コミュニケーションとして文章を書こうとしたら、「出すぎた断定」は決してしない。そもそも、コミュニケーションにおいては、どんなに歳を取ろうと、それよりもさらに年長の人物の前では、わかった風な軽はずみな発言はやっぱり遠慮するというものだ。

それがコミュニケーションであり、そして、それがまさに、僕が今書いている・書こうとしている断定まみれの文章と正反対なのだ。

正直言う。話がちょっとこんがらがっている。今、僕はわりと適当に書いている。というより、書きながら思考している。論文なんかは、結論を用意してから、それを主張するために展開を意図して構築していくものであり、書きながら考えるというのはやってはいけないこと、そもそも全く別の行為だが、今はとにかく書きながら考えている。そんな程度の文章だ。

一般に向けた文章は独断を排すべきとさっき言ったが、今なら別な言い方ができる。コミュニケーションの側面を強めて、誰もが心地よく読めるように、なんとなくやんわりとした方向性の読み物にするなら、個人的な断定は極力排し、さりげない記述を連ねていくべきだろう。

一方、大胆(不敵)に「あれはこうである、これはああである」と、自らが積極的に強く主張し、世の中を我こそが主導せんとするかのような物腰で語るならばーーまさに今この文章のようにーー、それは少なくない人にとって鼻持ちならないものになり、その分、無関心や侮蔑にさらされ、読者は減り、歳下の人を中心とする一部の人に、下から目線での接し方を軸とした、支配・被支配的とさえ言ってみたくもなる関係を語り手(文章)が積極的に構築することを目指す、

バカバカしいものである。

アハハ。

「物申す文章」という一言に集約できるだろう。それか「主張する文章」でもいい。

どんな文章だって、ある程度はそういう側面を持つのも事実だが、それでも、変に角が立たないように、「自分という一個人の感想にすぎない」というニュアンスを強めたり、内容を自虐の方向に持っていったりなど、やっぱり上手いことやっているのが一種の抜け目ない文章と言える。彼らはーー皮肉の意味も侮蔑の意味もなくーー節度ある文章を、自らを律してしたため、我が物顔で物申す他人の文章を目撃した際などは、「あーあ、やっちゃってるなあ」と、技術が低いものと認識している可能性がある。

まともな物書きーーとくに売れ筋の、つまり大多数の人に読まれることを目的とする文章の書き手ーーは、この点をこそ技術の核心と認識している可能性がある。

主張を排することは、別にそんなに難しくない。出来事や事実の記述を中心にしたり、内容をより常識的なものに「抑え」たりなどすれば、十分に工夫できる。もちろん、鋭い読者からすれば、そんな健気な工夫を施したところで、「結局そういう態度自体は公然と主張されてしまっている」ことを普通に見抜き、結局それさえなんだかバカバカしく見えもする。

しかし、かと言って、開き直っておおっぴらに主張する路線を取れば、今僕が書いているこんな文章になってしまうし、かと言って、何も書かないという判断は良識的すぎる。

(↑この最後の言い方かっこいい。)

僕は、評論文が好きだった。あーだこーだ抜かす文章に憧れていた。小説はほとんど面白いと思えなかった。なぜかはわからない。

僕はこれから、もしnoteに投稿を続けるのだとしたら、今一度作文の方向性を見直して、批判を辞さないーーもちろん、あくまでも特定の個人に向けない範囲でーー方向で、断定の強い文章を書いていくかもしれない。

多くの人が傷つかないようにビクビクしながら文章を書くのはもうやめた。面白くない。コミュニケーションならそれでもよい。より多くの人に届けたいなら、忖度や遠慮は重要だ。しかし、それは僕でない人が書けばよい。僕がくだらないと思う物事に対してくだらないと言えないでいるのは、人間関係が邪魔するからだが、それは現実でやれば良い。noteでは読解が人間関係にほぼ全体基づいており、これでは言論もなにもあったものではない。

これからは批判していくと思う。まず、やたら感傷を歌い上げる詩。まあそれはジャンルなのか......。俺は知らん。関わりたくもない。それはまだいいとしても、自分のわがままを主張する意味合いになってしまっている詩ーー例えば、「あなたは私を分かっていない」みたいな方向の意味になっている詩ーー、精神的に幼すぎて、とても見苦しい。敢えて皮肉れば、子供詩というジャンルなのだろうか。ところが困ったことに、その作者はその区別が付いていないからそんなものを書いているのだろうがーーところで、ワガママを言う方向性にするのであれば、敢えてそれを強調するとかの演出は施して欲しいものだ。たいていのワガママ詩は、大真面目に語っているように読めてしまう。「ワガママな自分という『自虐』」にしてこそ読み得るものだと思うーー、その作者だけでなく、読者もそこらへんの区別が付いておらず、何が困ったかと言うと、僕のフォロー・フォロワーの方にもそういう人が少なくない事態がだ。

もうコミュニケーションは辞めだ。はっきり言う。読解力なすぎ。まあ、傷つくんだろうな。たださ、よく読めもしないで、雰囲気からなのか、よくわからん称賛を送っている事態、僕の本音となけなしの判断力はそれを否定しているんだが、そこから僕が目を背けてただ同調するだけだとしたら、勝手に言わせてもらうけど、俺の人生は無意味だよな。俺は自分の判断に背いて彼らに迎合したくない。傷つくなら離れれば良い。俺はそういう文章を再び書き始めた(以前1月頃にも書いていた)。

傷つく。ま、仕方がない。そういう方向性で文章を書くことにしたから。今、した。サイコパスか? かもな。でもさ、彼らの読解力が低いのは俺のせいではない。

あと、話飛ぶけど、調性が低い詩を書くの超簡単だから。そんな程度で自慢しないで。

あと、言葉の使い方が個人的(特殊)すぎる人。それ、無意味だよ。誰かの真似かも知らんが。概念とか作っててくださいな。

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(これは自分のための文章です)

(文章の性質上(?)コメント返信しません。コメント欄も作りません。これはコミュニケーションではありません。その正反対の、退廃的な活動です。)

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