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俺「は」頑張っている。

 人事評価は難しい。なんといっても自分の力量を正しく比較する自己評価が、そもそも難しい。見える範囲、見たい範囲は結構せまい。そんな中で、彼よりはできた、彼よりはマシだと自己評価する。

 これは評価する側でも同じことが起きる。いろんなバイアスが目を曇らせる。相対評価だろうが、絶対評価だろうが、評価は比べることから逃れられない。

 うまく比べるとしたら、過去の自分と比べることになるだろうか。そうすると組織の評価とはリンクしないこともある。けれど、自分自身は成長を実感できるだろう。

 しかし、これは成長しなくなるとダークサイドに落ちやすいので要注意だ。今の自分が過去と比べて情けないというのは結構しんどい。過去の栄光に押しつぶされる。

 それでは、評価項目を増やしていってはどうか。増やせば増やすほど精緻になるのが統計では。これならば公平な人事評価になるのではないか。理屈は通るのではないか。

 しかし、労力が大きい。このインプット量に比べて反映される報酬はわずかだ。減る場合もある。これはバランスが悪い。見合っていない。そうなると真剣味が失われていく。バカにされているのかと感じる。

 みんな頑張っている。方向や方法がおかしな場合も多いけど、自分なりに頑張っている。そして、それは上司や周りが見るべき、察するべき、と思っているようだ。

「俺は頑張っている」。

 自分で自分の頑張りを認めるのは良い効用がある。でも、それに他人からの評価を混ぜると危険だと感じている。

「俺は頑張っている、のに、評価されない」。

 これは結構まずい。他人や組織への不満が顔を出している。さらに悪化するとどうなるだろうか。

「俺は頑張っている、から、報酬があって良いはずだ」。

 頑張っている自分が報酬をもらえないのはおかしい、「間違っている」となりやすい。不信感と正義感が混ざり合う。人によっては攻撃的になったり、不機嫌を撒き散らし、嫌なやつになる。極端になると横領などの犯罪に走ることもありうる。

 人事評価は心に響く。機嫌物であり、危険物である。
 とても難しい。

 評価は、結局、相性だと思う。仕事の相性、組織の相性、制度の相性。自分の持ち前と相性があわないと認められない。

 だから「俺『も』頑張っている」と、一文字を変えてみてほしい。たまにでいいから。

 一方、僕ら人事総務は、組織の目的達成と持続可能性を高めるため、相性のよい制度と運用を試行錯誤していかないといけないと思う。

 人事評価は育成支援であるべきだ。
 人事評価で人を不幸にしたくない。


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