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自信のつけかた。

「自信」というものは不思議だと思う。自らを信じると書くのに自信の源泉は、おおむね他者からの評価だ。「自信」とは他者を信じるという意味になるのだろうか、腑に落ちない。納得いかないので辞書を引く。

自信
自分の能力や価値などを信じること。自分の行為や考え方を信じて疑わないこと。

精選版 日本国語大辞典

やはり、自分を信じることのようだ。
しかし、ここには2つの意味が混じっていた。「自分の能力や価値などを信じる」と「自分の行為や考え方を信じて疑わない」。

後者は、実に多くの人がしている。あたりまえ、常識、絶対などの言葉をよく使う人は、絶対にそうだ。

また、自分を卑下する頑固さにもそれを感じる。マイナスな自分を頑なに信じて聞く耳をもたない。それも自信の定義からは、はずれていないと思う。自信にもプラスとマイナスがある。それはあたりまえか。

問題なのが、前者の「自分の能力や価値などを信じる」だ。途端に疑わしくなる。しかし、能力や価値は比較してはじめてわかる。それはしょうがない。他者と比較して、比較されて、差異が才になる。
かけっこするから足の速さがわかり、テストするから順位がわかる。

しかし、これは大問題ではないか。だって、それは関係性の中にしか存在しない。つまりは相性の問題と云える。人や教科、学校や職場、その相性いかんで能力や価値が揺れ動いてしまう。それじゃ、自信なんて時の運となってしまうじゃないか。
自信は巡り合わせ、実際そうなのかもしれない。

これで終わってしまっては、タイトルに偽りあり。だからもう少しお付き合いいただきたい。

辞書には「能力や価値」と載っていたけれど、おそらく「居場所」が大きい。能力や価値の前に、1人の人間として「存在してよい」ということを、どれくらい肯定しているか。

これは、善悪や良し悪しとくっつけると途端に意地悪くなるけど、存在してはいけないものが存在できるだろうか……。

自分でもなにを言っているかわからなくなるが、善悪の前に、すでに存在している。だから、存在はすでに肯定されていると云えるのではないだろうか。

善いか、悪いかは、あとの話。
良し悪しは存在自体ではなく、「行為」にこそある。

自分の存在の肯定、「居ていいんだ」という確信が拠り所となるのを感じる。

さて、本題の自信のつけかたは、哲学者のフリードリヒ・ニーチェ氏(1844年~1900年)がぴったりなことを書いているので、ここで引用する。少し噛みくだいて味わってみてほしい。

まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
自分を尊敬すれば、悪いことなんて出来なくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
それは自分の可能性を大きく開拓し、それを成し遂げるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生を
まっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。

フリードリヒ・ニーチェ「力への意志」より

こういうことなんだろうと思った。他者からの評価の前に、自分をまず尊敬すること。そうして尊敬に値する自分を歩む。他者から自らの手で自信を取り戻す。
なるほど、かっこいい、と唸った。

実際には、幼少期の体験が根底をつくるので、がちがちに性根まで食い込んだものを手放すのは不安で苦痛だと思う。これは自分ではどうしようもない。早いうちに専門家に頼ることをすすめる。認識のゆがみは自分との対話では悪いほうへ引っ張る力がかなり強い。気軽に専門家を頼ってほしい。

おそらく「自信」の多くは相性の問題だと思う。だけど、自分をまず尊敬する方法もある、そう覚えておいてほしい。

さて、私なりにまとめると「自信のつけかた」はこうなる。

①認識のゆがみを調整する。
②まず、自分を尊敬する。
③小さなことでも、できた自分をほめる。
④競争相手を昨日の自分にする。
⑤相性のいい場で過ごす。

「何も成していないから自信がない」は辻褄があっているようで厄介だけど、何者でもない自分だからこそ尊敬する意義がある。何かを成したあとでは調子にのる。天狗になる。

自信は過去の自分に求めることじゃない。
未来の自分を信じることじゃないか。

絶対にそうだ、と思う……。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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