絶対的な正しさ
彼と付き合って半年が経った。彼のほうから同棲を求められ、それに応じる。新しい生活はどのようなものか、少しの好奇心と不安も感じながら、準備している期間はでも、楽しいものだ。
荷物もまとめ終え、引っ越しも終わり、いよいよ、彼との同棲生活が始まった。
「一緒に心地よい時間が過ごせるように、必要に応じて話し合おう」
その言葉も安心できるもので、何か気になることがあれば伝えよう、と、そう、思った。
初めのうちは特に気になることもなく、というより、お互いがお互いの生活に干渉できるほど共有する時間も持てず、忙しい毎日を送っていた。
私は夜勤もあるし、彼は今、繁忙期のようで、すれ違いの毎日の中、お互いにできることをし、食べられるときは一緒にご飯を食べた。
ようやく彼の仕事が落ちつき、一緒にいられる時間が増えた。
そのときから、違和感を覚えることが増えた。
これは、ある種、当たり前のことかもしれない。当たり前のことかもしれないが、これまでの生活、生き方、考え、そもそもの習慣や教育ーー数え出したらきりがないけれど、それによって導き出される答えも違うし、まして生活の流れなんて各家庭によって、まったく異なるものであろう。答え、なんて仰々しくいう必要もない。正しい、間違い、なんて、そうないような気もするから。
たとえば、仕事から帰ってきてからすること。お風呂に入るのか、着替えてゆっくりするのか、ご飯を食べるのか、何もしないで ばたり 倒れるのか。それがあまりに劣悪な環境を生み出し、悪循環にうまくいかない、ということなら改善しないといけないと思うが、そうでないならば、それは好みという範疇に収まるものだと思う。
休みの日にどんなことをするのか。
掃除の仕方は。
ご飯の作る手順。
買いものの見て回る順路。
正直に、そんなもの、とやかく言われる筋合いもない。
ない、のに
「君は何でそういうふうにするの?」
そのたびに、わざわざ説明しないといけないようなことでもなく、主義主張もなく、私がただやりやすい流れで、そのときの気分で、そうしているだけのことを。
わざわざ、説明しないといけないのだろうか。
「私のやり方ですすめていきますので、気にされないでください」
ついに、がまんできなくなってはっきりそう言った。
すると、かえってきたものは
「僕がこんなに言っているのに、人から学ぼうともしないで自己流にやっていくっていうの? そんなのただの自己満足じゃないか」
さすがに、その言葉を聞いたときには はぁ と呆れるしかなかった。
あなたの家がそういうふうにやってきたからって、それが唯一絶対の正しいことみたいにいうのはおかしいと思う。自分たちが絶対的に正しく、それ以外のものは間違ったものだ。その感覚こそ危ぶまれる考えであって、異なる考えや方法を排斥してしまうのは、あまりにも狭すぎないかしら。それこそ、ただの、自己満足ではないか?
静かに、ただ、静かにそう伝えると、彼は「それなら、勝手にしなさい」と部屋を出て行った。私はため息をつき、別れる決心をした。
荷物を片づけながら、あのときとは違う落胆と失望があったものの、それらもまとめてしまいこむと、少しだけ、気持ちも楽になった。
そうして、少なくとも、今回は生活のことであったが、今後、どんなことであっても、そんなふうに自分たちの絶対的な価値観に巻きこまれず、排斥したいならそうすればいい、という自分を見失わない心を大切にしよう、と、そう思えた。
それだけでも、十分、この生活にも意味があったのかも、しれない。
なんて、自分を慰めてみた。