できているつもり
何事においても、そうかもしれない。
それは、書くこと、介護福祉士として、生きることそのもの、私として――すべてにおいて、言えることだとは思う。
確固たる芯を見出し、見失わずにいられたら、と感じる。
それでも、ふいに、思う。
できている「つもり」に、なっていないか
本当は、どうなので、あろうか
自信があろうとも、何だろうとも、それは構わないし、むしろ、自信を持って取り組まなければ、説得力も何も、ないのかもしれない。けれど、本当に、それは、できているのか。つもり違いに、なっていないか。その判断は、誰がするのか。すれ違いのまま物事がうまくいってしまったとして、それは、誰が、どう、修正していけるものなの、かしら。
慣れていること、うまくいってしまっていること(うまくいっているように見えること)、その職場の風潮や風土上そうなっていること、そこしか知らないこと。
それらは特に、危ういようにも思う。
まわりから見ても、特に何の指摘もなければ、間違いにも気がつかない。
慣れてしまっていることならなおさら、振り返ることもない。
うまくいってしまっているなら、それが本当にはそうでなくとも、そう見えてしまうなら、改善しようとは思わない。
そもそも職場自体がそれでよいのなら、修正されることもない。
そして、そこしか知らないのならなおさら、比較対象がないのだから、その発想すら、わくこともない。
私は、どうなのだろうか。
私は私で、その自信が持てないから、こんなふうに思ってしまうのだろうか。
かえって、それは、それで、よくないのかもしれない。
できているつもりに、なりたくはない。けれど、本当にできていることを否定してしまうのも違う。
その判断に迷ってしまう。基準をどこに持ってくるのか、現状で求められているものは何か、私は――どう感じているのか。
少なくとも、どんな物事でも、ときに立ち止まって、振り返ってみよう。
それでいいの? 問いかけて、みよう。
それでいい、と諦めないように。
こだわりすぎて、しまわないように。
頑なになって、それしか見えなくならないように。
慣れすぎて、流してしまわないように。
ときに立ち止まって、振り返ってみよう。
その中で、今、私が、できること。
それを見失わずに、少なくとも、それを、見失わずに。