うけとめる と うけいれる
まず受け止める。
この言葉は、初めの職場で大事にされていたもので、その施設全体の方針であった。実際にこの言葉を意識している人がどれだけいたのかはわからないけれど。
未熟な私はこの言葉を初めて聞いたとき、なんとも思わなかった。月日が経って、改めて考えたときにはそれでいいの? と思った。
それは、受け止めるだけでいいのか? という、純粋な疑問。
受け止めるだけでは体の中に入っていかない。
必要なのは受け入れることではないか? と。
そうしてさらに年月が経って、気づいたこと。
それは、受け入れる、前に「まず受け止める」ことの必要性。この、まず、という言葉が重要であることにようやく気がついた。
障がいと呼ばれるものをお持ちの方への支援において(個人的にはどんな人であろうとも変わらず必要だと思うが)、その考え方や感じ方、どのようなものを快不快と捉え、どんな方法が望ましいか。そうした種々のことを考えていく中で、とても必要な視点が、まず受け止める、なのだと。
私はそこからさらにーーこれはたぶん私が学んできたものから見たもので、言葉遊びに近いのだけれどーー順序があるのではなかろうか、と考えた。それは、
まず受け止める→受け入れる→受け留める→受け容れる
この流れで進行していくのではないか。
まず受け止める、は体で、どん、とその考えを受け止めていく。そして、体の中、心にしまい入れる、受け入れる。受け入れたものを体の中に留める受け留める。最後に、それらを受容していく、受け容れる。
うまく説明はできていないけれど、受容するまでの流れとしては、このような形があるではなかろうか。
そもそも、本当の意味で受容できるまでにはとてつもない力が必要だとは思うし、おそらく多くの場合はつもり違いだと私は考える。できている、つもり。
それはとても危険なこと。
私たちにできることは、本当にささいなことなのだと思う。小さな、小さな、こと。その積み重ねが少しずつでもよいものにつながるものだと、思う。
心を砕き、寄り添おうとする気持ち。
自分とは違う、その考えや感じ方に触れる。
うけとめる うけいれる
それは傲慢にしてはいけない。
ややもすれば上から目線につながってしまう、言葉。
こちらが譲歩しているわけではないのだ。
そういう意味の言葉ではない。
知りたい、つながりたい、かかわりたい、教えてほしい、その気持ちの中で自然に生まれる心。
それが
うけとめる うけいれる