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バリアフリー というものは

 ある人の言葉を借りるなら、

 精神でない人はいない。

 それは聞きようによっては如何ともし難い、馬鹿にしているようにも思えるものだけれど、私には何となく腑に落ちた言葉であった。

 今はだいぶ安定しているけれど、私自身、精神の波が激しい時期があった。そのときには自分ではどうしようもなかった。人に当たりもし、けれど、人に救われもした。

 何というか、境界は曖昧なのだ。それはあちら側とこちら側、明確にわかれているような綱渡りではなく、もっとぼやけたもの、抽象的なもの。領域とでも呼ぶべきものなのだろうと思う。

 学生のころからそんな感覚はあったけれど、特にそれを感じたのは、中途で障がいと呼ばれるものをお持ちの方とかかわってから。

 いつ、自分が、何らかの障がいと呼ばれるものを持つかどうか、わからないのだ。それは、いつでもありうる。

 そんなときに、障がい、とは何か、考える。

 今回は、個人(医学)モデルの考えよりも社会モデルのほうを重視して考えてみる。

 それは、障がいとは個人的なものではなく、社会や相手とかかわるときに生じる不具合である、というものだ。

 バリアフリー、という言葉はありふれているけれど、実際にどういったものか考えている人はどれだけいるのだろう。

 バリア、とはまさしく障がいのことで、それは「壁」とも言える。つまり、誰それの心や頭の中に壁があるために、私に障がいがある、という認識が加わる。

 しかし、それは逆も言えないだろうか。

 誰それの心や頭に壁があるために、私にとって、誰それとかかわる上で障がい(壁、バリア)がある、と。

 特に、コミュニケーションにおいて、それは顕著に現れると思う。

 コミュニケーション、とは、相互に関係するものであって、けっして障がいをお持ちの方だけが健常と呼ばれる人に合わせるものではない。それぞれが、それぞれに対してチャンネルを合わせることが、コミュニケーションだ。片方だけではない。

 壁、障がいとは、相互にかかわるときに生じるものであり、それは片一方だけが咎められるようなものではない。

 バリアフリー、とは、そうした壁を取り払うことである。けっして、車椅子の方が通れるスロープがあることだけが、バリアフリーなわけではない(実際そういったものにでも、当事者のことを考えていないような作りは多々あるのだけれど)。

 障がいと呼ばれるものが、私を作るのではない。
 私の中に、その可能性が秘められているだけである。
 診断名が私の名前ではないのだ。
 私はあくまで「私」である。

 そうした壁を、お互いの中にある障がいを、もっと意識できたらな、と思う。

 もちろん、個人でどうにかしないといけないものもあるけれど、それだけではない、ということを。

 お互いに、考えてみるのは、いいのだろうと、感じる。

※あくまで、一例として、です。
正確には、しっかりとした知識、心構え、その他様々なものが必要に思います。特に、重度の方と、かかわる場合には。
機会があれば、そちらも書いてみたいと思います。

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ふみ
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。