それはもしかしたら、見過ごしてきただけなのかもしれない
寡黙な人が何も考えていないと、なぜ思うのだろう。
黙々と働く人を見てまじめであると、なぜ思うのだろう。
外観だけが内面を決めるなら、人と話しをする必要は何もない。
「私は何も口にしないだけで、死人ではないのだよ」
ずいぶん前、それは本当にいつであったか覚えていないけれど、私はそんなことを思って、この言葉を書いたことがある。
想いを持っていても、それを表現できない人がいる。
表現が苦手、と言い換えてもいいけれど。
コミュニティに属している以上、多数の者に理解できないものはそちらのほうが「おかしい」ものになりうるのだろう。
けれども、少数の意見が果たして間違っているのか、というとそうでもない。
声の大きい人が、口のうまい人が、評価されていく社会。それも当然のこととも思う。
いちいちを拾う必要もない。
いちいちを確認するのは手間。
それなら、より情報の入ってくるほうへ。
明るく、元気に、話しの通いやすいほうへ。
それだけの時間は割けない。それは当然のこととも思う。けれど、
見逃してきたその声に、よりよいものがあるかもしれない。新しい道を切り開く視点があったかもしれない。
無口だからといって、何も考えていないわけではない。
はやさの求められている時代、そうして大事なものを取り落としてきて、もう立ち止まれない。それが正しいよいものだと、信じきっているから。
その内面には、本当は何が映っているのだろう。
それは見た目のイメージ通りかもしれない、そうではないかもしれない。
それは、やはり、話しをしてみなければ、わからない。
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いつも、ありがとうございます。
何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。