藤村 操 の手紙
謡曲の仲間から電話があった。
「藤村操の本があって、こちらの仲間で回し読みしています。興味ありませんか」というので「華厳の滝に投身自殺した少年の『巖頭の?言だったか、記、賦だったか』と血のめぐりの悪くなった脳を掻き回していたが、ともかく貸してもらうことになった。
私はもう数年前に謡曲の稽古を止めてしまったが、妻が稽古の時にその本を預かってきてくれた。
『藤村操の手紙』著者 土門 公記 下野新聞社 2002年7月27日刊行
早速『巖頭の感』を読んでみた。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價(か)するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
(明治36年5月23日の夜 叔父那珂通世痛哭して記す。)大樹を削って書かれていた書を叔父の那珂通世が書き取ってきたものである。
藤村操の生れ年が私の父親の生まれより21年早い。祖父の年代である。
これを見る前は父より少し後の年代かと思っていた。
友人は阿部次郎 岩波茂雄 藤原正 安倍能成 東季彦などそうそうたるメンバーである。
特に阿部次郎は著書『三太郎の日記』でお馴染みだった。旧制の高校生必読書だったというこの本は、ずいぶん長い間私の手元に置いて読み返していたものだった。
藤村操の師と呼ぶべき人は、高山樗牛 桑木厳翼 村上専精 海老名弾正など歴史に残る名が続々と出てくる。
漱石から英語の授業を受けたときに、漱石が指名したところ、藤村操が「やって来ません」といった。「なぜやってこない」と聞くと「やりたくないから」洋行帰りでプライドの高かった漱石はムッとしたが、「この次はやってこい」と言い渡してその場は収まった。次の5月20日、藤村操はまた予習をしてこなかったので、漱石は「やる気がないのなら、もうこの授業には出なくていい」と言い渡した。
ところが5月22日に藤村操が投身自殺したので、漱石は大変驚いて27日の授業の時に「藤村君はどうして死んだのだ」と最前列の生徒に聴いたという。
聞かれた生徒は「先生、大丈夫ですよ。新聞に出ているとおりの理由で死んだのです。生存の価値を疑って、解決が付かないから死んだんです。先生と関係ありません」と答えたという。漱石は「そうか」と言って非常にシリアスな顔をしていたという。
大変な秀才だった藤村操も自殺する前の何か月かは、勉強に身が入らないような状態だったと言う事だ。
彼の愛読していたのはアンデルセンの即興詩人、シェークスピアのハムレット、露伴の『尾花集のうちの血紅星』などだった。
彼の悩みは、哲学的懐疑と倫理的煩悶だという。
また、人格的な愛と自然の美(自然において美は愛に当たる)に慰められるという言葉が、友人への手紙に書かれている。
草は栄を春風に謝せず
木は落を秋天に恨まず
誰か鞭策を揮い四運を駆らん
万物の興欠みな自然
李白の『日出入行』より
彼が捕らえられたペシミズムは、その時代の気分というべきものであった。
ペシミズムは、「悲観主義」あるいは「厭世(えんせい)主義、世の中を嫌なもの、人生を価値のないものと思うこと」 などと訳される言葉である。物事を悲観的に考え、なんでも悪くとらえてしまう態度のことである。言葉の由来は「最悪のもの」を意味するラテン語pessimumである。
ショーペンハウエルとニーチェを高山樗牛が熱狂的に支持していた。『ツアラトゥスラ』生田長江の翻訳本明治44年。『ハムレット』坪内逍遥翻訳本明治42年。露伴『血紅星』全てを否定するという思想。ワーズワース『自然と人生』などなど、時代を覆っていた厭世主義にがんじがらめにされた、多感で繊細な少年の姿が浮かび上がってくる。
私は昭和10年(1935年)生まれである。中学へ進学する前の年に学制改革があった。高校へ入学したときには旧制中学の生徒が新制高校に残っていた。
旧制高校は新制の大学になった。新制高校には旧制高校のばんからな気風があった。私は背伸びして旧制高校生の愛読書を読んでみたいという気分になった。解りもしないのに。
阿部次郎の『三太郎の日記』を意味も分からないまま、読み返していた。誘いがあったのを幸いに、信州大学の学生ばかりだった読書会に入れてもらって、背伸びびしたものだった。
太宰治だのトルストイだの大学生が決めた本を図書館で借りて一生懸命読んだ。
そのころにも時代の気分というべき憂鬱な空気があった。高校の一年先輩が自殺した。同じ松本市内の高校生がやはり自殺した。
私が鉄棒で大車輪を試みてしくじり左手首を骨折した。続いて2人、同級生が骨折した。
自殺と骨折には関係がない。だがなぜか続いて起きるのだ。接骨院で同じ市内の高校で骨折が頻発していると、医師が不思議がっていた。
なにやら得体のしれない衝動があったことは、私自身が経験している。危険が分かっているのに止められなかった。
藤村操の自殺の原因について、藤村操が、「友人に宛てた手紙」の文章をこの『藤村操の手』という本の中で細かく分析して「ペシミズムに流された末の絶望」が自殺の原因と書かれている。これを読む限りそうであろうと思う。
頭脳明晰な彼にはその結末が分かっていたはずだ。分かっていながら引き返せなかったのだろう。
「絶望は死に至る病」「絶望は死に至る病」。いくたびこんな言葉をノートに書きつけたことか。骨折くらいで済んだから私はこうして生きている。
今年86歳になる。
2021年3月3日 記
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