記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【創作ノート】今はまだ幕間にいるについて

皆様こんばんは、四四田です。
今日は予告通り創作ノート公開と言いますか、
明確に創作ノートとか、プロットなどは作らないで普段やっているので、脳内にあるそれらを、覚えているうちにドバッと出したいなという内容です。

先日、こちらの企画に参加させていただき、



こちらの短編を投稿させていただきました。
バレエダンサーの話です。ブロマンスです。


ちなみに、その少し前に出した短編もバレエダンサーの話ですが、登場人物はかぶってなくて別のお話です。
もしかすると書いた僕が知らないだけで作中の彼らは同じ世界線にいるのかもしれないが。


【企画】というものの威力で、皆さまにお読みいただくことができ、読んでくださっている方へは勿論の事、
今回の企画主催者のなみさん、メンバーの皆さんには感謝でいっぱいです。
ありがとうございます。

感想コメントもいただけて、有難く読ませていただいているのですが、いただいた感想で気が付いたことというか、ちょっと考えたことがありまして。
創作論というほどではないんだけれど、あとがき的に、つらつらと考察させていただければと思います。

というわけで、自作短編に関するネタバレなどもいたしますので、良かったら上記リンクから一度拙作に目を通していただくのをおすすめいたします。

なにしろ「今回の話(今はまだ幕間にいる)は、どんでん返しだったねえ」と身内からも言ってもらっておりまして、どんでん返せてるようなのですよ。自覚がなかったんですけれども。


考察中毒気味なので、自分の創作振り返りも長……
目次作っとこう。


書くまでの話

初参加の企画。
お題と参加要項は下記の通り。

・激重感情仄暗不穏ブロマンス〜BLでも可
・文字数は1万字以内
・お題は「視線」

締め切りは2月14日中。
企画自体を知ったのが、確か12日の夜だったか11日の夜だったか……、多分12日だと思うんですよね、仕事の夜番の休憩中に見つけたはずで……ぶつぶつ。

いや、二日でお題ありの1万字以内のBLないしブロマンスは書けないでしょ、と思いながらも、悩むこと一日。結局諦めきれずに、13日の22時くらいに決心して、なみさんに参加表明をさせていただいたという流れです。
実はこの時まだ全然書いてなかったというか、

そもそも当初は別の作品が念頭にあったんですよ。

没にした話

noterさん、文フリ常連さんたちにおかれましては、ご存知の方も多いのかなと思うのですが、
あたらよ文学賞さんというのがございまして。

もう二年前でしょうか?
第一回目のあたらよ文学賞に、奥津雨龍名義で拙作「蝉」という短編が一次選考だけ通過させていただいていたりします。


当時は奥津アカウントを別に持っていて(現在は閉鎖)、そちらで報告とかしていたのです。

で、じつはこの時もう一作「ボディバッグ」という全然別の話を投稿して、そっちはあえなく落選しているのですが。
それをね、今回の企画投稿するにあたってベースにできないかなって思って、最初はそっちを練り直そうと思っていたの。

どんな話かっていうと、

友達の連帯保証人になったあげく、とんずらされた主人公が、やばいおにいさんたちから借金のカタ的に運び屋の片棒を担がされるんだけど、山奥に運ばせられた明らかに人体入ってるでしょっていう納体袋を上から金属バッドで殴るのをやれって言われて、それを躊躇してたら中で動けないはずの男が出て来て、やばいおにいさんたち皆殺しになっちゃって、主人公は今度はこっちの男に自分もぶっ殺されんのかなと思ってたら、中から出てきた男がやばいおにいさんたちをその山の中で焼くのを手伝わされただけで、一緒に乗ってきた車で山を下りるというひたすら状況に振り回されるだけの主人公とそんなに強いのになんで納体袋に入れられる事態になってたんだよって男のボーイミーツボーイ……、

自分で説明しててもちょっとよくわからん設定ですが、不穏でいいかなって思って笑笑

これをBL色強めるというかブロマンスみを意識して書き直して出させていただこうと思ったんですよね。

ただ、正直出会い編だから。
「激重感情」を、出会ったばかりのこの時点の彼らの間に生まれさせるのちょっと大変な気がしたというか。
主人公が状況に対してドン引きしすぎてて、不穏ではあるんだけど、ほの暗くないと言いますか。

ほの暗いどころか主人公的にはお先真っ暗と言いますか。

とりあえずお題というか参加要項の条件で抑えられているの、「不穏」の部分だけじゃない?
激重と仄暗成分が足りなくない!?

ほの暗いとお先真っ暗は全然別物なんだよ!!!!

って思って没にしたんですね。
あと多分もしかしなくてもこれは短編より長編向きですね。短編だと謎が謎のまますぎる気がします。ただ僕的にはこの話は、深夜の山奥で納体袋の中から出てきた男がその場にいる連中を皆殺しにする、という、ただただその場面が見たい(どういう欲求なのか)だけで考えたものなので、正直前後がなかったりする。未来の四四田ちゃんにそのうち考えてもらいたいと思います。前後の話作ってくれ四四田ちゃん。


というわけで、ボディバッグの改稿を没にしたのが、14日の朝7時でして。
(それまではね、いじってたんだよね)


アイディアストックにあった話


没にしたことで、アテにしてた塊がなくなってしまって。

とりあえず自分のストックがあるんですけども。こんな話が書きたい、みたいなアイディアストックです。
それをざっと流し見して、何か今すぐ書き出せる素材ないかなと思って、
書きようによっては激重にできそうかなと思ったのが、潮音の話です。

数年前にアイディアの種としてストックに放り込んだときは、二千翔は女の子で名前もなくて。潮音もまだ死んではいなくて。
ストーリーも、三角関係は三角関係なのですが、死んだ恋人がぜんぜん縁も所縁もないところで死んだので何をしようとしてたのかを確かめる生き残った二人の男女と、たまに現れるけど自分が何しようとしてたのか説明できない幽霊の、ロードムービーみたいなものでした。

が、短編にロードムービーさせるのはシンプルに荷が重い。

もっと短い中で、大きな時間の感覚、感触?を持たせられないだろうかと思いつつ、とりあえず考える前に勢いで書き始めたのが、ガラ公演のリハーサルという場面です。

ガラ公演、という単語に対して何も説明をしないでいるのですが、なんらかの公演があって、その本番前なんだな、ということが理解してもらえればそれでいいかなと思って、作中では用語解説は控えました。

そもそもバレエというのは、クラシックバレエという踊りで表現する演劇なんですよね。だから、物語があるんです。「白鳥の湖」だとか「ドン・キホーテ」だとか。それで、その物語を表現するのに、二幕とか三幕とかでお芝居をしているのですね、全幕バレエ、という呼び方をされるものは、バレエを使ったお芝居、物語を見るものなんです。

もちろん全てが全幕並みの長さを必要とするわけではなく、中には短い一曲で完成する作品もあります。
イメージ的には全幕バレエが長編で、そういう短い演目は、短編みたいな感じですね。

ガラ公演というのは、
そういう短く完成している作品や、全幕バレエの中から、ソリスト(主役級)のキャラクターが踊る単体の踊りを抜粋したものを、オムニバス状態、小品集として公演するものになります。

「白鳥の湖」から、白鳥のバリエーション(単独の踊り)、
その後に「くるみ割り人形」から、お菓子の国の女王のバリエーション、
その次は「ロミオとジュリエット」のロミオ、
みたいな、全然違う作品の有名な踊りや新しく振り付けされた作品を、色んなダンサーが踊ってくれて次々に観られる、幕の内弁当みたいなものです。

なんでわざわざガラ公演、という設定にしたかというと、まずメインの登場人物に活躍しているダンサーである、という社会的な立場を持たせたかったんですよ。
で、それを人の口に説明させると説明台詞になってしまいますので、そうではなく、画、と言いますか、場面の描写で知らせたかった。

活躍しているというのなら、全幕バレエの主役でもいいのですが、そうなると出ずっぱりになって、ずっと舞台上にいなくてはならなくなる。時間の制約に縛られるんですね。別にそこまできっちりした設定をしなくてもいいのですが、主役があんまり暇そうで、舞台の上で踊るという仕事、以外のことをふらふら出来ちゃうのは不自然で、リアリティに欠けると思いました。


ガラ公演だと主役級のダンサーばかりが入れ代わり立ち代わり踊るので、その登場人物が踊る必要があるときだけ舞台に上がれば良くなる。
ストーリーの進行に立ち会わせるには、物理的に自由になる時間を持ってほしかったので、ガラ公演の出演者、にすると、本人の社会的な部分と、劇中の物理的な自由度の両方を担保できるということで、ガラ公演にしました。

あと、久しぶりに会う人、とかも出しやすいのです。
所属しているバレエ団とか、生活している国とかが違う相手とも。同じガラ公演の出演者であるというだけで一堂に会することができるので。


理想のBLの話

そもそもなんでバレエダンサーなんじゃ、ってのは、理想とするBLは何かって話と結びつくかもしれません。

BLというか、ブロマンス的なものを書くにあたってひとつ自分に対して肝に銘じていることがあって、何故男を好きになってしまったんだ、という煩悶を安易に背負わせて物事をドラマチックにする装置にしないようにしたいな、っていう理想があります。

これは実際にそういう描写がある作品を批判しているわけではなくて、あくまでも僕の流儀の話なんですが。

BLはファンタジーである、と認識してはいて、
実世界の性的指向の話と同一線上で語れるものとはそもそも考えてはいないのだけれども。
ただ、僕はシスジェンダー女であって、ゲイカルチャー当事者では少なくともない。

その上で、BLはファンタジーだという免罪符を手に、男性同士の思慕の情という、明らかに当事者性がない領域に土足で踏み入る以上、実世界でのスタンダードの構築の足を引っ張らないようにしたいなと思っていて。

つまり、フィクションの力を僕は信じてもいるので、そのフィクションの中で、繰り返し繰り返し、なんで同性を好きになってしまったんだ、って煩悶をするのは、まるでそのことが悩まないといけないこと、不自然なことだという刷り込みをするようで卑怯に感じてしまうんですよ。

当事者の方からは端から相手にされてないとしましても、なおのこと無関係な人間がそんなことをしちゃいけないんじゃないかって。
それで、これまでしてきた二次創作だとしても、僕基本的に、作中人物が同性を好きになることに対して煩悶する場面と、周りの人間が驚いたり忌避したりする場面って、極力入れないようにしてるんですね。ヘテロのカップルと同じくらいの当たり前であってほしいという。

とはいえそれは理想であって実際の社会はそうじゃないじゃん、という意見もあるでしょうし。
理想的すぎる設定は逆に加害的で気持ち悪いって考えもあるだろうし。
その社会の荒波を乗り越える姿をこそ声援の心をもって描写したいという強い意思がある方もいるだろうし。

僕も読み手だったらそういう作品全然読むのでね。
ただまあ自作世界においては、好きなものは好きでいいじゃないくらいの感じであれ、という願いがある。
だから恋愛しない子も同じくらい当たり前にいてくれと思って、色恋沙汰しらねーみたいな子も、なので普通にいつもいます。

でだ、僕が育った過程で触れてきたバレエ業界って同性パートナーがいることに対してわりと現実にそんな感じだったんですよね。

だからすごく自分の作りたい世界の価値観にフィットしやすいというか。話の舞台にしやすさはあるのかもしれません。バレエ教室の公演にゲストで出て下さった、ものすごくいかつい筋骨隆々の男性ダンサーが、普段は女性言葉の口調で、普通に男性のパートナーがいて隠してないからみんな知ってる、みたいな。少なくとも僕がいた場所では、30年くらい前からそんな感じだった。

偏見を持たないようにしよう、という宣言がもつ偏見の力ってすごいな、と思ってしまうのですが。
僕は、自分も何らかの偏見は持っている人間だろうと思うんですね。というか、自分は偏見はないんです、って言いきってしまうのって危険だなと思っていて。偏見はあるだろうことを前提に、そのことで誰かを傷つけている可能性は常にあるのだ、と気を引き締めておきたい。
そういったことも踏まえたうえで、それでもできる限り自分の狭い視野、思考のでこぼこ道を、生きてる間、工事し続けて整備していけたらと思っている。

僕はBLっていうジャンルが好きなので、せっかく好きなジャンルで現実の何かを踏みにじってしまわないように、できる範囲で気をつけたい、なーという。

それで設定がバレエダンサーになったんだと思う。


条件を突き詰めた話

そんなわけでとりあえずリハーサルの場面を書き始めたのですが、
じつはあの時間の跳躍、二千翔の生きている時間と、周囲の人間が生きている時間のズレを作るつもりは、書き始めた当初はありませんでした。

普通に、
二千翔がローマのリハーサルを見ている→
潮音がなかなか来ない→
やっと来たとおもったら本人ではなく死んだという連絡、
という漠然としたイメージのもとに書き始めたのですが、
これ、このままだと激重にならないな、と気が付くという。この時点で書いてるのはお昼くらいでした。

いや、書き方によっては十分表現できるかもしれませんが、今回あくまでも短編であるので、短編という拘束の中での費用対効果を考えると、もうひとひねりあってほしいところ。

そもそもお題と参加要項の条件をどうやって回収していくのか、ここで手を止めてちょっと考えました。

まず、三角関係を全員男子にすることで、「ブロマンス」は解消させました。
「視線」は、二千翔がローマのリハーサルを見ている、ということでとりあえずお題の回収ができた、ということに。あとは、視線を意識しながら登場人物たちにお互いを見る動作をしてもらおうと思ってました。

あとは「激重」と「仄暗」と「不穏」。

激重ってなんだろうな。
それは執着だな。
執着って、書きようによっては不穏だな。
不穏な執着ってものによっては仄暗くなるな、
仄暗いってなんだろうか、完全な不幸は仄暗いにはならない。
希望が見えそうで見えない、先が見えない感じが仄暗いということかな。

というなんだろうね、一人連想ゲームをしました。
もともとのストックにあった幽霊を挟んだ三角関係の影響もあって、
「恋人が死んでいることを忘れている人間とそれをそばで支え続けている年下の青年」という構図が浮かびました。

恋人が死んだことを受け入れられない人間も、
それをそばで支え続ける人間も、そこそこ激重じゃないか?という。
ここに、そばで支え続ける人間のモチベーションに、支えている相手へのなんらかの想いがあれば、より激重力を上げられる。

不穏、を表現するにもいろんな状況を考えられると思うのですが、
状況が良くはない、悪くなるかもしれない、という不安定さも不穏さ、だと思います。
それで、恋人が死んでいることを忘れている、というメンタルの不調を「不穏」の回収に。

「仄暗」は、作中人物の感情が一方通行であれば、回収できるよね、ということで、この浮かんだ構図を採用することにしました。


モチーフの話

ローマにロミオとジュリエットのロミオをやらせようと思ったのは、この構図を思いつくよりも前で、年下のローマがロミオを元気よく踊っていたら可愛いなというのと、あと全体にサブリミナル的に「死」の要素がほしかったんですね。
それで、衣装だけでこの後死ぬってことがはっきりとわかる役を踊らせようと思って、踊っている演目を選びました。
まあ、何を踊っているかをわざわざ書かない、というのもありだったんですが、何を踊ってるか、を入れたほうが臨場感が出るのではという判断です。

没にしましたが、客席での雑談で、アレイシャが「死にそうな恰好」と舞台上のローマのことを言って、「死にそうというか確実に死ぬ格好だ」と二千翔が爆笑する、というくだりがありました。
当初は、潮音がまだ死んでいない、来る途中に事故に遭ったことがこのあとわかる、という展開を想定していたので、暗示めいた言葉、予言的に入れたやり取りだったのですが、
潮音がすでに死んでいて、二千翔がそれを忘れて一人だけ別の時間軸を生きている、という設定にしたことで、削りました。
潮音がすでに故人なら、アレイシャはそういう無神経なことを言わないな、と思いまして。

「ラ・バヤデール」のソロルとか、「ラ・シルフィード」のジェームズとかも死ぬ役ですが、一般認知度が低いと思うので、文学好きだったらシェイクスピア読んだことがなくてもなんとなくわかるだろうロミオさんにしております。

しかし、二千翔が10年の歳月を一人だけ遡っていることで、結果的に、時間の変化の残酷さ、みたいなものをイメージとして持ってもらえる、良い設定だったかなと思います。
23歳の若々しいダンサーが踊るロミオなのかと思ったら、33歳のダンサーが演目として得意だから踊っているロミオ、はちょっと印象が変わると思うんですよね。
そういう、一気に何かが老け込む印象を持つのに、シェイクスピアの原作においてたった15歳の少年である「ロミオ」という要素が、ひとつの効果をもたらしてくれたのではないかと。


年齢設定に悩んだ話

年齢をそもそも幾つにするのか、ということも結構考えました。

年下のダンサーと、ちょうどキャリアも年齢も一番いい時期に差し掛かったところで夭折する天才的なダンサー、そしてその恋人、の疑似家族の中での三角関係、というのが当初から漠然とあったイメージなので、ローマが23歳、という設定は真ん中にありました。

疑似家族からそろそろ独り立ちしなきゃいけない、でもまだ本人はカップルの被保護者ぶっていられる。カップルのどちらか、あるいはカップルの両方に対して思慕の情があって、横恋慕で割って入ることができないからこそ、被保護者の立場でいれば傍にいられる。

そういう人物としてはじめは構築していったんですよね。

10代だと、子供すぎて別の問題をはらむので、そこはちゃんと大人扱いができる、でもまだまだ若いよやっぱり子供だよ、みたいな。
23歳はそのぎりぎりかなという。四捨五入してはたちだね、みたいな。

あと、本拠地ではない国のガラ公演でパドドゥ(男女の主役級の登場人物同士で踊るもの。大概カップル設定。ロミオとジュリエットとか、王子様とお姫様とか)を任せてもらうにも、10代だとちょっとセンセーショナルすぎかなという。
活躍しているダンサーという社会的な立場の描写はしたかったのですが、あんまり天才過ぎると天才であることの言い訳というか、そっちのドラマ描かないと、それはそれで不自然になる。23くらいは多少話題にはなるかもしれないけれど、ほどほどの優秀さじゃない?
抜擢だとしても不自然じゃないよね、と。

そんなわけでベースの年齢は決めたのですが、実はローマが23だと思ってるのは二千翔だけ、とすることに途中からなりましたので、今度は今のローマの年齢、いくつなの問題が浮上。

そもそも登場しない潮音がいくつなのかもこの時点で決まってなくて。
結論を見つけないまま書き進めました。


不在の人間が一番強烈な印象をもつのが好きな話

頂戴した感想の中に「ゴドーを待ちながら」みたいだと思った、というちょっと演劇ファンから生意気だと叱られそうなご感想がありまして。叱られそうだけど言われた四四田はめちゃくちゃ嬉しいという。
(時雨さん、ありがとうございます)

恐悦至極すぎて地面に埋まりながらお話するのですが。

「ゴドーを待ちながら」はご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょうが、劇作家サミュエル・ベケットによる有名な戯曲。
ウラディミールとエストラゴンという二人の人物が、会ったこともないゴドーという人間を延々待っている、けれど現れない、という二幕構成の不条理演劇ですね。ゴドーがいったい何者なのかが劇中で一切言及されず、解釈は観客にゆだねられます。
僕、ゴドーは高校生の時に初読しまして、以来ものっそいだいっすきなので、ああ好きなものってバレるんだなあと思いました。

不在の存在が一番大きなものとしてそこに在る、というの好きなんですよ。
ドーナッツの穴みたいなもので。
穴があるからこそドーナッツだ、みたいな。

ずーっとその人間の噂話しかしなくてその場所に実際にいる人間たちの話にならないとか。
逆に、絶対に言及しないことで余計にそのことが重くのしかかってるんだろうな、とか。
構造として好き。

ラジヴ・ジョゼフの戯曲「タージマハルの衛兵」における、タイトルにあるし登場人物の職務的にものすごい主張しているのに、高貴な人のためのものだからという理由で、身分の低い衛兵である登場人物の二人は絶対に見てはいけない、ということで舞台上には現れないんだけど延々話題にされ続け、クライマックスの悲劇の元凶になっていくタージマハルとか。

トム・ストッパードの戯曲「レオポルトシュタット」で、ユダヤ人一家の四世代にわたる家族の団欒が時代ごとに描かれる間、具体的物理的にナチ党員が攻め込んでくるような描写はないんだけど、あきらかにナチスドイツの存在が年を経るごとに一家の生活に影を落としているし、歴史を知っている我々の頭にも、観劇の間強くその存在を意識させられる構造になっているのとか。

そういうのたまらなく惹かれますね。
上記はどちらも好きな戯曲。

死んでいる人間越しの恋愛ってのは、死んでるくせにまだ存在を主張してきやがって、みたいな感じで多分にこの要素があるなあと思います。

不在者の存在の主張っていう構造が好きな人間が不在者の存在の主張たっぷりな要素をぶちこんでいる。
好みを言い当てられるのって僕はちょっとときめきます。照れますが。


『信頼のできない語り手』の話

二千翔、おそらくどっかでは潮音がもういないことがわかってるんですよね。
そういうつもりで書きました。
顕在意識はローマが23歳で潮音がまだ生きてる時間に戻っているけれど、潜在意識には時間の経過が降り積もっている。
だから、アレイシャとの会話が久しぶりだとか、潮音を「ショーン」って発音する海外ダンサーの呼び方を随分聞いていないとか、そういう、もう誰も潮音の話を二千翔にしていない、ということが、身体感覚で二千翔の中にある、というのを念頭に置きながら書いています。

わかってるからこそ、つなぎとめるみたいに、頭の中で潮音をいちいち引き合いに出すだろうな、という。これはわざとやりました。
そうやって意識しないと消えてなくなるものだ、と二千翔はわかってる。

その辺りが、いつ出てくるんだ?、と思わせることになったり、ゴドー的になったりした所以かなと思います。

繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせるみたいに潮音はいると思い込み続ける二千翔に、読者が巻き込まれることで、実際は違う、ってことをばらしたときにまさかの展開感が味わっていただけたのかなと思います。

これを実はあまり狙ったつもりがなくて。

二千翔に見える世界を描写しながら、二千翔のやろうとしていること「潮音が生きている時間に居続ける」をさせてあげるのに徹しただけのつもりだったのです。

ただ、よくよく考えたら、読者の方には、一人称の二千翔の主張しか情報がない状況なわけで。
二千翔がいわゆるミステリにおける「信頼のできない語り手」の役になったことで、どんでん返し感が強くなったんだと思います。


書き手と読み手の持っている情報量は違うという話

書き手の自分にとっても今回大きな学びになったのがこの点で。

二千翔が実際の状況とは異なる主張をしていることを、書いてる僕は知ってるので、知ってる目で見ると不自然なことをいっぱいしてるのです。
正直それだけで伝わっている気になってしまっていました。反省です。

なので、実を言うと、当初は最後のアレイシャとローマのやり取りを予定していませんでした。

二千翔が執拗に潮音の話を頭の中でし続けていたり、時間経過に対して妙な抜けがあったり、ローマの舞台を見ていないことの理由を覚えていなかったり、アレイシャの反応が微妙だったり、と、二千翔が見えている世界が脆い理屈、の上に成り立っていることを暗示し続けているつもり、だったので、もうこれって潮音が死んでるのはわかるよな、と思ってたんですね。それであんまり念押しするとしつこいかなあと。

ただ、ローマがどういう気持ちなのかを拾ってあげないといけないんじゃないの、と思ったのと、二千翔パートだけだと激重が薄いな。
いや、死んだ人間を脳内で無理くり生き返らせてるのは十分重いけど、その二千翔に付き合って生きてるローマのモチベーションがきちんと本人発信でわかったほうが、より激重だし、不穏だし、仄暗よね、ローマパート書くか、となったのですね。

お題と条件がこの作品を助けてくれたんだな、というのは感想を拝読してわかりました。

そうだよね!二千翔の主張に散々付き合わせた読者の皆さんに、二千翔の世界の嘘を拾って読んでください、ってちょっと不躾だった。
これものすごい反省して、ローマパートを書かせてくれた条件に感謝しきりです。

ミスリードのつもりなく書いていたのですが、結果的にミスリードに。
なおかつ、ミスリードになったほうが、面白い作品だったと思うので、書いたのは自分だけど、自分の力ではないところを褒めていただいていると思います。

もう一度、年齢設定に悩んだ話

解決させてなかった年齢何歳にするのか問題も改めて、ローマパートを書くにあたって出てきました。

ローマは潮音の年を超えてしまっているべきだ、と思ったのは、そのほうがローマのやるせなさが出るかなと。こだわってる相手の年齢を超えるのって、結構しんどい(推しの享年超えるのしんどかったー)ものなので、ローマにはしんどくなっててほしかったんですよね。

それで潮音の享年を決める前に、まずはキリよく今のローマを33と仮定しました。
潮音が死んだのが、ローマが23歳のときなのかは、僕にもわかりませんが、少なくともローマが23歳である10年前は生きていた。

あとなんとなく、七回忌はすぎてて欲しかったんですよね。
まだそんな状態なのか、みたいな周りの人間の無責任な視線が二千翔に刺さっているほうが、潮音の存在の大きさと、二千翔、ローマのなんともしがたい状況が出る。
2年前3年前では最近すぎる、とはいえたとえば極端に言えば20年前、とかにすると、今度は潮音のことを覚えてる人が周りからいなくなっちゃうと思うんですよね。

周りの人間がまだ記憶にあるからこそ、生きている潮音と、健康な二千翔と、子どもだったローマを知っていればこそ、あの二人まだそうなのか、みたいに責めたり、興味を持てたりする。

それでその節目は七回忌前後かなと思って、日本の仏事の節目の作り方はよく出来てる。

10年以内に死んでいる、として……。

そんな算数の計算みたいなことを色々考え、最終的に潮音とローマを5歳差にしました。
28歳の潮音は生きている、28ないし、それ以上生きたとしても、30になるかならないかで死んだとすれば、33歳は十分「とっくに」その年を超えたと言えるかなと。


激重感情仄暗不穏ブロマンスにするには

心的外傷や精神疾患から来る記憶の喪失や、記憶の混濁って、周りの人間からしてみれば不条理極まりないですけれど、わからなくなってる当の本人にとってはさらに不条理だと思うんですよね。自分はそんなことがあったのを知らないのに、世界中がそうだって言う、とかどえらい孤独だなと。

そんな孤独に20代のまだ子供っぽい頃から、30代の一人前のダンサーまでの時間、寄り添い続けた、とするとローマしんどいなあ。
そしてずっとわけわからんわけではないらしい二千翔がふっと通常(とされる)状態になったら、ローマにそういう重荷を背負わせてる自分、ってしんどいだろうなあ、と。それは場合によっては短絡的衝動的に終わらせようという気分になってもおかしくない。

二千翔と潮音は明確に恋人関係ですが、そこで庇護される子供として育ったローマが、いまとなっては果たしてどちらに対してより強い気持ちを持っているのか、書いてる僕もわからないのですが、本人にもわかってないんじゃないかと思います。

昔は確かに、同じダンサーで尊敬できる先輩として、潮音のほうをより必要としてたのかもしれないし、潮音に懐いてるなあと二千翔は平和に思ってるだけで、すでに二千翔を取り合って牽制しあってるだけだったかもしれない。

激重感情仄暗不穏になれたんじゃない!?

と納得ができたところで完了としました。
書き上げた直後、夕方くらいに投稿。

タイトルについては書きながら考えていました。

舞台の話なので舞台絡みで何かないかと思って、考えてる時に、幕間まくあいという言葉が浮かびました。

よく第二の人生と言いますが、大事な人間がいる時間といない時間の分断はそれこそ第二の人生にあたるもの。
けれど本当だったらそうやって進むべき第二幕、第二章に、二千翔はもちろんのこと、ローマもきっと進めていないのではないか。
その場合、これは人生の幕間、休憩時間なのではないか。
そのように思ってタイトルをつけました。

アレイシャについての余談

アレイシャというキャラクターは気に入ってます。

ローマが23歳世界で生きてる二千翔の口から「ベテラン」という言葉が出てくるくらいなので、実際のアレイシャは多分ベテランどころか大御所だと思います。
そもそも潮音より年上だと思うんですよね。

ローマ23歳世界で28歳の潮音より年上の「ベテラン」ということは、若くても30代。そこから10年なので、今多分40代以上です。

二千翔が感じた「みんな潮音の噂話してる」というのは、事故にあって死んだ潮音のパートナーが久しぶりに来てる、ということに対する興味を引いてるんですよね。
それで、他人の視線から二千翔を庇うためにアレイシャは隣を陣取りました。
誰も40代以上の、第一線を活躍し続けてきた大御所に、本番前に気軽に声はかけられないので。

言葉にしないで行動で知性と優しさを表現できる女性、というのを想定して書いたのですが、ちょっとでも表わせていたらいいなと思います。

有吉京子先生の「SWAN」というバレエ漫画にマージという女性ダンサーが登場するのですが、マージの影響は受けている気がします。
マージ大好きだったんだよー。

ともすると、アレイシャをしゃべらせすぎそうに、なりがちなところ、
「これは激重感情仄暗不穏ブロマンス」
という合言葉がブレーキになってくれていたと思います。

女性キャラクターだと、自分が思ってることを都合よくしゃべらせそうになってしまうんですよね。
二千翔とローマの関係にツッコミ入れまくるアレイシャを一瞬書きかけて消しました。
あれはアレイシャのセリフじゃなくて自分だった……そういうのよくない。


二千翔についての余談

もともと、二千翔のベースになった名無しの女の子は、正規のダンス教育を受けないまま、ダンス留学をして挫折し生活が困窮しかかっているところを、バレエダンサーとしてのエリートコースを進んでいる最中の潮音に拾われる、という形の出会いをしている、という設定にしていました。

二千翔ももしかすると似たような過去があるかもしれません。

ダンサーのパートナーにくっついて、世界中を動き回るために「通訳兼マネージャー」という仕事をできるようにスキルを上げていった人だと思います。

必要な時は、若いローマの通訳もしてあげていたのかなと思っており、その二千翔の通訳が、ローマにはもう必要がなくなっている、というところにも、過ぎた年月を要素として入れました。ローマはもう、海外公演で必要な言語は自分で意思疎通ができるようにしてると思います。

二千翔という名前は、書きながら出て来た名前です。
過去と未来、潮音とローマという二つの世界にまたがってる人なので、そういう浮遊感がサブリミナル的にある、いい名前が浮かんだなと思います。

あと、愛称がちょっと女の子名前みたいになるのが好きなので、アレイシャに「チカ」って呼びかけてほしいなって思って。チカって呼びかけて不自然じゃない名前はないものか、と思ってたのもある。


さいごに

脳内創作ノートをひたすら公開するような記事となりました。いかがでしたでしょうか。
本編気に入っていただけた方に、裏話的に楽しんでいただけたら幸いです。
僕は人がものをつくる過程を知るのが好きなので、自分の作品でも、そういうものを作ってみました。
書きながらまた、無自覚にやり過ごしてたことを、さらに再確認することができたように思います。

あとがきというには随分長い記事でした。
お付き合いいただいて、ありがとうございます。

またバレエ短編書きたいなあと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集