笹久保伸、ジャズライターにキレる。音楽家を悩ます評論家のパワハラ問題
突然過ぎて意味がわからなかった。ギタリスト・笹久保伸が3月11日、Xにてジャズ評論家の柳樂光隆氏を名指しで批判し始めたのである。いわば音楽家から評論家へのカウンターだ。
私個人としては、柳樂氏が監修する『Jazz The New Chapter4』でディスクレビューを担当させてもらったし、主宰した『ネオホットクラブ13』にもゲスト出演してもらった。好意でインタビューさせてもらったことにも恩を感じている。数々の取材記事に関してもリスペクトだ。
しかしながら、笹久保の指摘は鋭い。「“評論される側”が掌を返したら、“評論する側”の立場はどうなる?」。これは個人のBEEFを超えた、もっと現代の音楽家と評論家の関係性そのものを問う、意義深い提起だと直感的に思ったのである。
自然と我が指は射手にDMしていた。「なぜ、このような行動に出たのか、真意に迫りたい」と。どんな気難しい人物かと構えたが、快諾の返事は「初めまして、ご連絡をいただきありがとうございます」から始まる、極めて社会的な文面で拍子抜けした。
取材は秩父~東京間・オンラインにて実施。インディペンデントな音楽家は物怖じせず、胸中を隠さず正直に明かした。音楽家、評論家、リスナー、そして自分自身へ。我々は互いをどれくらいリスペクトできているだろう? もとより炎上は覚悟の上、いざ行かん。
(取材:小池直也/写真:本人提供)
音楽家がいなければ評論はない
――前提としてお聞きします。笹久保さんにとっての評論のイメージとは何ですか?
笹久保(以下、笹久保):クラシックのギタリストとして活動をスタートした20代の頃に、雑誌『レコード芸術』の同じ号・同じCDについて浜田三彦さんから「聴くに堪えない蟻のような演奏」という感じで書かれ、彼の兄である濱田滋郎さんからは「神的な演奏」と評されたことがあります。
その経験から音楽評論に疑いを持つようになりました。文章は好きなので、自分の作品についての批評などは読みますが、いい記事も悪い記事も気にしません。ただ、その中には「自分の意図とは違う解釈をされているな」と思うものもある訳ですよ。
リスナーがそれを鵜呑みにすることもある。だから評論は疑いを持って読むべき。今回の件はそこにも一石を投じたいのです。
――では、先日Xで柳樂光隆さん宛てにリプライした経緯について教えてください。
笹久保:まず彼は『Jazz The New Chapter』や雑誌『BRUTUS』で21世紀以降のジャズを評価し、世に紹介した功績がある。覚悟を決めた評論家だと今でも思っています。ただそれにも関わらず、以前からSNSで同業者に対する嫌味や悪口を書いたり、最近も某雑誌のインタビューについて「編集の人選ミス」などと何度もポストしてもいる。それが目に余ったのが投稿の理由ですね。
ある意味で立場のある人なのに、狭い世界の同業者にマウントを取って自分を上げるような姿に疑問を抱きます。人が作った音楽を扱う評論家の姿勢としてちょっと評価できない。評論する姿勢として大事なのはフラットであることだし、本当にいいものを紹介したいなら皆でやった方が大きく広がると思うんですよ。
世界中の音楽家は身を削り命をかけて制作していて、評論家はそれを扱う職業。だから肯定する時も否定する時も適当なことを言うべきではありません。これは音楽家からの切実な意見です。投稿への反応を見るに、同じことを思っている人は多そうですけど。
――適当だと感じた出来事について、具体的に教えていただけますか。
笹久保:それを感じたのが、ポストに添付した3年前の『CHICHIBU』についてのコメント。当時サム・ゲンデル(sax)と共演した日本人はいなかったので周囲に驚かれましたが、もちろん事前に柳樂さんを含めた多くの評論家に音源とプレスリリースを送っています。でも彼からの反応は特にありませんでした。
もちろん音楽の好みは人それぞれあるので全然いいんです。でも、ひとしきり色々な人が評価した後に「○○で流れてると、めちゃめちゃ良いことに気付いた。レコードの印象ってどこで聴くかによって変わるよね」という失礼なツイートを目にしました。「良い」とは書かれてますが、「人を舐めてる奴だな」と思いましたよ。
自覚してほしいですね。そもそも音楽家がいなければ音楽評論家も存在しません。その本質的なことを忘れているんだと思います。
「書いてもらう」ことの圧力とは
笹久保:最初は「この音楽が好きで世に紹介したい」という純粋な想いだったかもしれない。でも、いつしか「自分が認められたい」という方向になっているのかなと。
もちろん本人にも直接メッセージしました。まだ返事はありません。あえてケンカ腰な文章で書いてしまったのもSNSで論戦を張った過去もあるし、応答するかなとも思ったんですよね。
――アルバム制作には基本的に膨大な時間がかかります。対して我々書き手の評論は丁寧に仕上げても通常、数時間から1日ですし、ツイートなら数分。注いだ絶対時間の大いなる違いを考えると、私自身も自戒しなければと思う次第です。
笹久保:もし本当に良いと思ったのであれば、ちゃんとした内容と言葉で伝えるのが評論家だと思います。そんな違和感を先ほどの2021年の出来事から、ずっと覚えていました。褒めてもらえれば表向き「ありがとうございます」と言わざるを得なくなります。
でも、これは評論家から音楽家へのパワー・ハラスメントなんですよ。こちらは「こんなやつに言われたくねえ!」と思っている訳ですからね(笑)。
――音楽家が評論家の圧力に屈している?
笹久保:「ライターさんに書いてもらって、CDを宣伝する」という構図がどうしてもありますね。実際、有名でフォロワーが多い人や影響力のある人が書くと本当に売れるんですよ。CDの100~200枚が動くかもしれない。それは音楽家にとっては少なくない枚数。有名な雑誌やメディアに載せてもらえるたら、もっと売れるかもしれない。となれば書いてもらうために頭を下げてお金を払う。
そうしたら、もう書き手に意見できないですよ。後日「恩を裏切った」とか「書いてやったのに偉くなったな」と言われかねません。でも考えてみたら音楽家は評論家に批評されるけど、その逆はないんです。それがフェアなのでしょうか。評論する側からは何でも言えますが、全然違う気持ちで作っていても音楽家からは意見できない。
小さなPR表記
――ライター側からの意見ですが、音楽メディアで掲載されるインタビュー記事の多くは純粋な評論ではなく広告記事。いわゆる「案件」です。冒頭部分に小さく「㏚」というマークがあるかを見てください。私自身も多くの広告記事を担当していますが、この場合はどんなに音楽を掘り下げた素晴らしい内容でも、先方のチェックを経て「宣伝」という機能を引き受けています。
笹久保:広告と評論を混同していると。それにしても「PR」表記が小さいですね……。もちろん宣伝が書き手の役割であることも承知しているつもりですが、どうしたら評論は可能になるのでしょう?
――どのように書き手が原稿料を得ているかを考えればいいのかなと。広告記事の場合は大体レーベルからメディアに報酬が支払われ、そこからライターやカメラマンに分配される仕組み。これが悪だとは思いませんし、広告記者としての楽しみも知っています。しかし先ほどの「お願いして書いてもらう」という図式はこれを指しているんですよ。
だから自分の場合は直接メディアから原稿料を得る記事か、Noteを中心としたSNSに挙げる記事の方が本来的な評論に近いのかなと。またPRがないメディアも、どこが資本なのかチェックすると見えてくる何かがあるかもしれません。
笹久保:その線引きを読者は知り得ない。たとえ「PR」という表記を見たとしても、意味すら理解できないと思います。
言葉を鵜呑みにしないで
笹久保:ところで演奏できない人に音楽のことがどこまでわかるのか、疑問はあります。そこはいかがですか?
――演奏可能か否かは記事の良し悪しと別だと思いますが、ほとんどの音楽ライターが演奏できないのは事実です。そして音楽理論的な表現がなければ、残された評論の道は印象か文脈しかない。特に今の日本における音楽評論は文脈(=ファクト)過多だと感じています。誰と誰が一緒にプレイをしている、同じ地元や学校だったというような切り口。
笹久保:確かに。例えばひろゆき氏と通じるような、今の時代性を表しているようにも感じました。ただ、文脈中心で語ると歴史の教科書みたいになってしまいますよね。一方で音楽家の場合は文脈ありきで作らない人も増えて来ています。
小池さんが取材されたファビアーノ・ド・ナシメントもそう。彼はもともとブラジルのクラシック・ギタリストでした。彼の楽曲の中でもエイトル・ヴィラ=ロボスの引用などが出てきますが、クラシックから早々に解放された今はルーツのブラジルに根ざしながらも、それに収まらない音楽を奏でている。あのインタビューで音楽ジャーナリズムについて質問していたのも鋭かった。
――ありがとうございます。彼は「自分の音楽と別の要素を関連させるのが理解できなかった。人目を引きたいのか、それは音楽の可能性に制限をかけてしまうと思う」と個人的なナラティブの押し付けに懐疑があるようでした。
笹久保:冒頭でも名前が挙がったサム・ゲンデルもジャズのカテゴリで語られがちですが、自身は「ジャズじゃない」と言っています。ただ日本だと「彼みたいな音楽をやる」という考えになりがちですよね。「どうエフェクターを使うか?」みたいな。
小手先ではなく、姿勢自体を学べば違う表現になるはずです。僕はそれで自分の音楽を作っていきたいと思うんですよ。何かの文脈よりも、足元にある自分の文脈を発見することが大事。それは誰しもに与えられているものですから。
――ただ文化理解の増進や温故知新といった点で、文脈主義は有効です。ジャズをはじめ、ブラックミュージックを語る上で音情報だけになってしまうと、それは文化盗用に繋がりかねません。だからバランスが大事なのかなと。
笹久保:ヒップホップの発展や「グランド・マスター・フラッシュやスプーニー・ジーを聴こう」みたいにならなかったら、それは可能性を狭めてしまうことでもありますね。僕も専門ではありませんが、歴史とともにどう変化してケンドリック・ラマーなどに至ったのかを知ると面白いですから。
――では最後に音楽家と音楽評論、そしてリスナーの関係性について望む未来があれば教えてください。
笹久保:音楽家は音楽(アルバム)を作る。評論家はそれを紹介する。リスナーはその音楽を色々な視点から楽しむ訳ですが、その中で「言葉」を鵜呑みにしないでほしいですね。それは作品を作った音楽家の言葉も、評論家の言葉もです。
音楽は「言葉にできないもの」を音楽に落とし込んでいるので、言葉にできないのです。それを何とか紹介するために誰かが「言葉」にしている、という背景をわかって読んでいないと危険なことになります。音楽家や評論家に心酔するのは音楽を純粋に聴くこととは、かけ離れていきます。
ましてや、音楽家や書き手は色々な言葉のトリックを持っていて、そこには様々な思惑があります。アーティストとの癒着やレコード会社との癒着、自分のブランディングなど様々。なので、皆さんは自分の感性を信じて音楽を聴いてください。