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道徳書簡集 003 セネカ

セネカより親愛なるルーキーリウスへ

君の手紙によると、昔の友人を私に紹介したいということだね。しかし、その手紙には「自分に関することを彼に話さないでほしい」という注意も添えられていた。どうやら君自身も、彼には普段から自分のことを話さないらしい。こうなると、君は彼を「友人」と呼びながら、「友人ではない」とも言っていることになる。

もし君が「友人」という言葉を世間一般の軽い意味で使ったのなら、つまり、政務官立候補者を「立派な人」と呼ぶような、あるいはたまたま名前が思い出せない相手を「旦那さま」と呼ぶような軽いニュアンスで使ったのなら、それで問題はない。しかし、自分が「友人」と呼ぶ人に対して、自分自身を信頼するのと同じように信頼を置かないのであれば、それは大きな誤りだ。君は本当の友情を十分に理解していないのだ。

友人には、どんな思案も共有すべきだ。ただし、それには順序がある。まず友情を結ぶ前にその相手を慎重に判断するべきであり、友情を結んだあとは、心から信頼すべきだ。この順序を逆にする者たちは、友人としての接し方が正しくなくなり、友情の本質を見失うことになる。テオプラストス(1)の教えに反して、先に愛情を抱き、それから慎重に判断するという手順を踏むべきではないのだ。むしろ、慎重に相手を見極めてから愛するべきだ。

友人にふさわしい相手かどうかを判断するには時間をかけるべきだ。そして、一度ふさわしいと決めたなら、その友人には君の心のすべてを打ち明けても良い。友人とは、自分自身に話すのと同じように、誠実に語り合うべきだ。秘密を持つとしても、それは敵にすら明かせるようなものであるべきだ。しかし、習慣や状況によって秘密にしなければならないこともある。だからこそ、君の悩みや考えをすべて友人と分かち合いなさい。

君が相手を誠実だと信じるなら、相手も君に対して誠実になるだろう。実際、裏切られることを恐れすぎたあまり、かえって相手に裏切りを教えてしまう人もいる。疑い深くなることで、相手に失敗の機会を与えてしまうのだ。友人に対して秘密を隠す理由が君にあるだろうか?友人といるときに、君が自分ひとりだと思えない理由があるだろうか?

人によっては、友人だけでなく、道ですれ違った誰にでも自分の秘密を話してしまう者がいる。一方で、どれだけ大切な人でも信用せず、できれば自分自身すら信じたくないと考え、すべてを胸の奥深くに押し込めてしまう人もいる。どちらも間違っている。誰彼構わず信用するのも間違いなら、誰も信用しないのもまた間違いだ。ただし、前者の方が人間らしい間違いで、後者の方が安全な間違いだとは言えるかもしれない。

同じように、いつも落ち着きがなくせわしなく動き回る人も、いつも動かずにじっとしている人も、どちらも批判されるべきだ。なぜなら、騒がしさを求めるのは勤勉ではなく、むしろ焦った心が駆け回っているだけだからだ。そして、どんな行動も避ける人は落ち着いているのではなく、ただ怠けているだけだ。

ポンポーニウス(2)の作品で読んだ言葉を心に刻んでほしい。「ある人々は隠れ家に閉じこもりすぎて、外の世界のすべてが曇って見えるようになった」と。行動には落ち着きを持ち、落ち着きには行動を伴わせるべきだ。自然を相談相手にしながら、自分の生き方を考えてみよう。自然は君に教えてくれるだろう。自然は昼と夜を作ったのだ、と。

お元気で。


注釈

  1. テオプラストス
    古代ギリシャの哲学者で、アリストテレスの弟子。友情に関する哲学的な教えを残した。

  2. ポンポーニウス
    古代ローマの劇作家や詩人。ここでは、彼の文学作品の一部が引用されている。

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