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楽翁公伝 0101. 生立と教養 - 生誕及び父母 渋沢栄一著
楽翁松平定信公は、桃園天皇の宝暦8年12月27日に江戸田安邸で生まれた。父は従三位権中納言の徳川宗武で、母は山村氏(香詮院)。嫡母は近衛氏(宝蓮院)である。幼名は賢丸という。
父である宗武卿は将軍徳川吉宗公の次男で、田安家を創立した人物だ。政治に明るく学問を好み、名数(※仏教や道教などで使われる数の概念)を重視し、著作もかなり多かった。明和8年6月4日に57歳で亡くなり、法諡(ほうし)を悠然院と号した。
生母・山村氏は「名驾(みょうが)」と呼ばれ、山村木工三安の娘で、山村伊勢守の養女となっていた。性格は温厚で優美だったとされ、文化9年12月2日に85歳で亡くなった。生前に落飾(貴人が髪をそって仏門に入ること)して香詮院と号していたため、これを諡号とした。
嫡母・近衛氏は「森麿(もりまろ)」と名乗ったが、後に「通姫(みちひめ)」と改名している。摂家(摂政・関白に任じられる家格)である近衛家の人公(当主)の娘で、聡明かつ貞節で、和漢の書を愛し、和歌にもすぐれていた。天明6年1月12日に66歳で亡くなり、生前の宝蓮院という号をそのまま諡号とした。
定信公は14歳のときに父と死別したため、宝蓮院(近衛氏)の恩愛に深く感謝し、その死後に遺作の和歌を集めた書『宝玉集』を編纂した。その序文には、厚い恩遇を受けたことが特筆されており、公自身の深い思慕の情がうかがえる。