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心理の本を読むことでうつ病から回復した話③(大学受験失敗・浪人生編前編)

読んでくださってありがとうございます。
機能不全家族のもとで育ち、精神疾患(うつ病など)で苦しみ、そこから回復した自分の半生を書きたいと思います。
心を病み始める大学受験失敗・浪人生編になります。
前回の話はこちら

この辛さ…誰もわかってくれない

「自分に気づく心理学」という本を読んでから、自分の生きづらさが育った家庭環境に原因があったことを悟りました。

3日間くらいは絶望していましたが、生きづらさの原因を知れたことで、どんよりとしか見えなかった景色が少しだけ明るさを取り戻したように感じました。

自分の家庭環境に生きづらさの原因があったことに気づいてからは死にたいということを周りに公言するようになります。

当時のSNSのmixiの日記には消えたい、死にたい思いを毎日投稿していました。その異変に友達たちは気づき心配をしてくれました。しかし、何がそこまで辛いのを理解してくれることはありませんでした。

自分はわかってくれない友達に嫌気がさし、マイミク(Twitterでいう相互フォロー)からほとんどの友達をブロックするようになります。

先生にも受験をしたくない、行くとしても親元から離れ、新聞奨学生としてどこかに住み込みで大学に行きたいということを相談します。

先生には「新聞奨学生なんて辛いからやめたほうがいい。そんなこと考えず、今は受験勉強に専念した方がいい」と言われました。

それを聞いて「やっぱり誰もわかってくれない。ここは進学校だから、合格者数の方が大事なんだ。自分はその評価の頭数でしかないんだ」としか思いませんでした。

そうだ家出しよう

センター試験が差し迫ってきた年末頃です。

生きづらさの原因を知ってからは、親が自分を滅ぼす悪魔のような存在に思えてなりません。自分はこの家にこのままいたら、壊されてしまう。そう思い、唐突に家出をします。

行く当てもなく、自分は公園でぶらぶらしていました。そこで小学生の同級生に偶然出会います。

「今家にいるのが嫌になって家出してるんだ」そう言うと、その友達は1日だけならいいよと泊めてくれることになりました。

この時、その家族と一緒にご飯を食べました。自分の家と違って、和気あいあいとしているのが印象的でした。

自分は父親に対して、敬語を使って話しています。でもこの友達は父親に対してタメ口で話し、父親のことを面白おかしくいじっていました。自分はこういった風景はテレビの中だけのものだと思ってました。

自分は泊めてもらったことを感謝する一方、この光景がとても羨ましく思えてきて、あまりに辛く惨めな気持ちになりました。泊めてもらったことを後悔しました。翌朝、自分は友達とその家族にお礼を言い、家に帰る決断をします。

大学受験なんかどうでもいい

家に帰って、父親から激怒されました。

「このセンター試験2週間前の大事な時期に家出とはどういう了見だ?お前の受験料は一切払ってやらないからな」そう言われました。
とはいえ、もうこの時自分は大学受験なんてどうでもいいと思っていました。

ただ、友達に相談したことで思いなおすことになります。その友達はほぼ毎日一緒に自習室に通い勉強していた仲でした。この出来事を話すと友達は自分のことのように怒ってくれました。

「俺はなおとが今まで勉強を必死に頑張ってたことを知ってる。だからその努力を簡単に踏みにじるような発言で脅すようなことは許せない」と。
「でもなおと、お前は大学に行くべきだ。今のままだとお前はいずれ親に潰される。形だけでも嘘でも謝って、大学受験したほうがいい」

そう友達に言われ、このくらいのことで怒れるんだなって関心したのもありますが、何よりちょっとだけ嬉しかったです。自分は父親に必死に謝り大学受験をすることにしました。

大学は、某一流国立大学と某一流私立大学の経済学部と商学部を受験しました。結果は残念ながらどこにも引っかからず、落ちました。

浪人生生活の始まり

父親は自分の予想に反して、あまり怒ってはきませんでした。
ただ、「現役生と1年浪人したのとでは将来得られる年収が約○○万円違うんだ。お前はそれだけ勿体ないことをしたということを自覚しろ。来年の塾代は払ってやる。ただし死にもの狂いで勉強しろ。」と言われました。

自分は浪人生生活をスタートしました。
最初は塾に通い、真面目に勉強をしていました。ただ、親から目指せと言われていた大学に本当に行きたいのかどうかは自分はわかりませんでした。

この頃もずっと死にたい気持ちは消えず、正直大学受験のことよりも明日が来ること自体が嫌になっていました。そこで、5月の中旬位から塾に通う振りをして、図書館で大学受験の勉強の代わりに、心理学系の本を読むことにしたのです。

自分はアダルトチルドレン

加藤諦三氏の本をネットで調べてみると、この本に共感できる人は『アダルトチルドレン(AC)』に当てはまるのではないかということを知ります。自分もまさしくアダルトチルドレンでした。

アダルトチルドレンは、1970年代にアメリカで提唱された概念です。
アルコール依存症の親を持つ子供が大人になったとき「対人関係の問題」や「生きづらさ」に悩み苦しんでいる人が多くいることがわかりました。
その人たちをアダルトチルドレンと呼びます。

その後アルコール依存症に限らず、「機能不全家族」で育った子供も対象になっています。

機能不全家族とは
親からの性的虐待、身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト・両親の不仲があった家庭。他にも親が自閉症等の発達障害、精神疾患の場合など。

子どもにとってあるがままでいいという安心感のある居場所ではなくなってしまうような、子どもを育てる機能を果たさない家庭のこと。

アダルトチルドレンの特徴

  • 相手の評価に過敏になり自分に自信がもてない

  • 自分の存在価値を確認できず、酒・ドラッグ・仕事・学業に溺れてしまう

  • 対人関係が上手くいかず、居場所のなさ、生きづらさを感じる。

上の特徴は一部です。今だと愛着障害、HSP、DESNOS、発達性トラウマ性障害、複雑性PTSDなどがこれに近い概念だと思います。
もう少し詳しく知りたい方は下記リンク読んでみてください。

自分はこの時、図書館にあるアダルトチルドレンの本を片っ端から読み漁っていました。今では毒親と言われる原点ともなった「毒になる親」等の本もこの時読んでいました。

しかし、ほとんどの本は、不適切な養育の例、芥川龍之介などの偉人もアダルトチルドレンだったことの紹介、機能不全家庭で育った人の特徴が挙げられているだけで、具体的な解決策は載っていませんでした。

精神科、ここでも理解されない

自分の生きづらさの原因がわかったものの、解決策がわからない。こういう時こそ餅は餅屋だ!と思い、また精神科に行くことを決意します。

母親に相談したところ、東大出身の医者で名医がいると伝えられて、そこの精神科に行きました。(母親は看護師で知り合いに何人か医者がいたのでそこから聞いた情報らしいです。)

そこでは、診察の時自分がアダルトチルドレンであることを伝えました。
自分はこの時少し期待していました。ここから自分の心の治療が始まるのだと。やっとこの辛い思いから解放されるんじゃないかと。

でも医者はピンと来ていません。それもそのはずアダルトチルドレンは、医学的な疾患名では無く、医者はその概念を知らなかったからです。

結局大して話を聞いてもらえず、10分間の診療で薬を出されるだけで終わりました。この医者だとダメだと思い、ここから色んな精神科を転々とします。

しかし、どこに行っても理解されることはありません。

自分がアダルトチルドレンだと伝えても、母親と同席させて話を聞こうとする医者。親がいると自分は本音が話せません。そんな経験から段々と精神科医を信じられないと思うようになりました。

大して話も聞かない。薬を出して終わり。儲けるためだけにやってるとしか思えませんでした。

カウンセリングも受けました。しかし、カウンセラーにもわかってもらえません。

「そんな親に怒ってばかりいないで許してあげたら?今日だって親が治療費出してくれてるんだよ?」と開始5分くらいで言われたこともあります。「あ、この人は親に無条件に愛されて生きてきた人なんだ。この発言が人を傷つけてるのがわからないんだ」そう思いました。

カウンセリングの時間は50分間でしたが、言われたことが許せなくて、その後はずっと質問されても黙っていました。

こんな感じで病院を5つくらい転々としました。最後の方は自分のことをまた最初から同じ話をすることに疲れてきて、「どうせまたこの医者もカウンセラーも俺のことわかってくれないんでしょ」と絶望していきました。

こんな自分…なりたくなかった

そんなこんなで、精神科治療にも絶望し、自分をここまで追い込んだ両親のことを心の中で更に恨むようになりました。

7月頃、塾から親に電話があり、自分がここ2か月ほど授業に出ていないことを知らされます。母親はそれを知り自分に対して、「お父さんがせっかく塾のお金払ってくれているのに何で行かないの」と自分に対して怒りを向けてきました。

自分としては、サボって遊んでいるつもりはありませんでした。自分は自分のことを何とかしようと必死だっただけです。

「それはお前たち親が俺のことを壊したからだ。今自分は大学受験どころじゃない。もう生きているのが辛い。なんで自分が子供の時、父親と離婚してくれなかったんだ」と伝え、子供の頃いかに辛かったかを力説しました。

心の中でとどめていた怒りを親に対して初めて向けた瞬間でした。しかし、母親にとってそんなことは青天の霹靂で「そんな昔のことを今更言っても、しょうがないじゃない」と言います。

それに対して、一度ため込んだ怒りを吐き出した自分はもう止まりません。母親を思いっきり蹴り飛ばしました。母親は倒れこみます。そこで母親は小さくつぶやきました。

「あんたお父さんそっくりね」

自分はこの言葉を聞き、もう収まりがつかなくなってしまいました。自分は台所にある包丁を取り出し、母親に突きつけました。

この言葉は一番自分が言われたくなかった言葉でした。父親のようになりたくない一心で今まで頑張ってきたのに、その父親と同類の人間になってしまった。自分はなんて醜い人間になってしまったのだろう。

その場では、自分は何とか母親に刺すことを踏みとどまり、泣きながら壁に包丁を突き刺し、壁を蹴り壊すことで何とかやり過ごしました。

図らずも一人暮らし生活に

そんな出来事の次の日、自分は珍しく塾に行っていました。

ちょうど家に帰ろうかと思っていた矢先、母親から突然連絡がありました。
「あんた今どこにいるん?家に絶対帰ってきなさんな。お父さんがカンカンで『暴力をふるうような奴は家に置いておけない。出ていけ』と言ってる。今帰ってきたらあんたの命が危ないけえ。」と言われました。

とりあえず母親と合流しました。その時母親から、自分が母親に包丁を向けた出来事はすぐに父親に報告したこと、この出来事は相当父親の怒りを買うことになったことを教えてもらいました。

母親は「自分もあんたには悪いと思っとたんよ。こんな感じで○○(弟)も家を出されたじゃろ。自分がなおとの居場所用意するけん。今、看護師の時にためた貯金が200万ある。このお金全部あんたの為に使うけえ。」と泣きながら言いました。

それから塾から近いビジネスホテルを1週間ほど取ってもらい、そこで暮らすことになりました。ビジネスホテルの後は、塾の近くの寮に入ることとなり、受験が終わるまではそこで暮らすことになりました。

ずっと出たかった家から解放された瞬間でした。

今回はここまでとなります。次回は、浪人生中編に続きます。長い文章を読んでいただきありがとうございました。

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