知覧の桜の木の下で神様と同じ夢を見る。
かつて、「日本男子は桜、女子は大和撫子」と呼ばれた時代があった。桜はあの頃、戦争に駆り出された若者の象徴だった。(花の命は短く、一斉に咲き一斉に散り、後に残らない、それが美しいとされた。)
桜が満開のこの時期に、私は知覧を訪れた。
知覧には昔陸軍特攻基地があった。特攻とは爆弾を積んだ飛行機もろとも敵の空母に突っ込んで体当たりする特別攻撃のことで、太平洋戦争末期に陸軍や海軍の作戦として行われたものだ。これはアメリカに押されていた日本が少ない戦力で敵を阻止するための最後の抵抗で、作戦の成功は特攻隊員の死を意味しており、20歳前後の経験の少ない若者ばかりが駆り出された。
突撃前の特攻隊員たちは「軍神」や「生き神様」「神様」として崇められ、戦死後は二階級特進の栄誉を受け永久に称されるものとされた。
特攻のように、人間のこれほどの大集団が崇高な存在となって死んでいったことは、人類の歴史において一度もない(らしい)。
しかし日本の敗戦後、彼らの尊い犠牲に対する意見は180度変わり、戦時中の考え方や教育の全てが「軍国主義の象徴」と批判され、彼らの魂を堂々と祀ることすら許されない時代が数十年続くことになる。
飛行機の不調などで不時着し生き残った特攻隊員たちは戦争が終わってもなお、世間に否定され弔いきれない仲間の死に対する苦しみ、自分だけが生き残ってしまった罪悪感、失われた命を取り戻す術のない無力感、、言葉にならない複雑な感情と戦い、中には自殺する者もいた。
この事実をただの「歴史」として知っていた私は今まで、特攻隊は「無駄死に」だと思っていた。特攻隊員たちの決死の覚悟も虚しく、特攻が成功する確率は極めて低く、大抵は敵の空母に届くことなく撃沈していた。結局日本は原爆を落とされてたくさんの市民の犠牲の末に降伏することになる。特攻なんてしなくても敗けてただろう、こんな無茶苦茶な作戦をどうして誰も止められなかったのか、若者の命をなんだと思っているんだ、そんな哀れみや怒りの感情でいっぱいだった。
しかし実際に知覧を訪れると、そんな誰でも言えるような薄っぺらな感想なんてどうでも良く思えてくる。もちろん過去の反省から学ぶこともたくさんある。が、知覧まで行ってあえて「特攻隊は無駄死にだった」とか「日本が早くに降伏していれば」とか「愛国精神という名の洗脳」とか言ってしまうと、彼らの観音像に手を合わせて「安らかに」なんて祈ることはできない。かと言って、彼らに同情してただ涙を流すだけも何か違う気がする。
それよりも、大切なもののために、日本の未来の平和のために命をかけた戦士たちが存在したこと、その勇姿に目を向けたいと思った。どんな想いで命をかけたのか、どんな未来を夢見たのか、日本の未来に何を残したかったのか、日本人として今の私には何ができるか。少しでも前向きに考えて自分の人生に持ち帰ること、できれば彼らが夢見た世界を一緒に夢見ることが、せめてもの弔いのように思う。
現在、陸軍特攻基地の跡地にある特攻平和記念会館には、特攻隊として没した青年たちの写真や最後に残した遺書、遺品などがたくさん展示されている。顔には生き様が出るとよく言うが、軍服を着た彼らの表情は若干二十歳前後にしてはとても凛々しく逞しかった。ただ一方で、記者などが撮った写真の中にはあどけなさが残り、今の高校生や大学生たちと変わらない普通の青年だったんだなと再認識させられる。
家族や恋人に宛てられた彼らの遺書には、「勇ましく死んでゆきます」「敵の軍艦を沈めますから安心してください」など、自分の犠牲で日本が勝つと信じている内容が多かった。(当時彼らの手紙の内容は検閲されていたため、本意かどうかはわからないが。)
たくさんの手紙が展示してあるが、どれも達筆な字で書かれており、俳句が詠まれていたり難しい漢字が書かれていたりと、高い教養を感じる。また、当時飛行機は誰でも操縦できたわけではなく、厳しい訓練から選び抜かれた高い身体能力も必要だった。さらに、手紙には自らの死を前にしてもなお両親をはじめ家族に対する感謝や相手を気遣う内容が多く、人格の素晴らしさにも感心させられる。彼らが戦後も生きていたらどんなに素晴らしい日本になっていただろう、と思わずにはいられない。
そんな手紙の中から、私が特に心を打たれた内容を2つ紹介したい。
穴澤利夫少尉(23歳)
恋人の知恵子さんに宛てた最後の手紙。
本当は愛する恋人と結婚したい。ずっと彼女と生きていきたい。死にたくない。そう想いながら手紙を書いていたかもしれない。そう手紙に書きたかったかもしれない。
しかし時代が、本音を言うことを、生きることを、許さなかった。
自分の死後、彼女がいつか立ち直って第二の人生を歩いていけるように(本当は別の人と結婚なんて嫌だと言いたいかもしれないけれど)、彼女のことを想って精一杯書いたのだろう。唯一最後に欲を言って振り絞った言葉が、「会いたい、話したい、無性に」だったのだろう。彼の最後を想像するだけで涙が溢れる。
MISIAの「逢いたくていま」という歌は、彼女が知覧でインスパイアを受けた内容をもとに作られた歌として有名だが、穴澤さんと知恵子さんの恋を歌ったものなのではないか、と勝手に想像してまた泣いたり。
今私は恋人と同棲しているが、一緒にいられることは決して当たり前ではないことを改めて感じた。そして今の平和な世の中に感謝し、彼と過ごす一瞬一瞬を大事にしようと思った。
上原良司少尉(22歳)
憲兵が街中を歩き回り、言論の自由もなかった時代に「日本は敗けるよ」と言っていた特攻隊員。慶應の経済学部に通う学生で、今でいうエリートだった。
彼が突撃前夜に遺書とともに残した「所感」にはこう記されている。
自分の命の犠牲に対する代償が「日本を救うため」でなければならなかった時代に、そう信じなければ死んでも死にきれなかった時代に、彼は日本が敗けることを知りながら戦死した。
疑うことも許されなかった権力主義(全体主義)を明快に批判し、自由の勝利を信じ、また、特攻隊員のことは「自殺者」と表現し、日本の間違いを客観的に指摘する。しかし同時に、敗北が見えている日本のために命を捨てる自らへの矛盾、夢に見た自由な日本の未来が見れずに死んでいく虚しさが、最後の「後ろ姿は淋しい」という言葉の中に込められているようにも見える。
「言論の自由」
それは今私たちが当たり前に享受できているものであり、当時決して許されなかったもの、彼が夢見たものだ。しかし今は、自由すぎるが故に主張し合い貶し合い傷つけ合っている人もいる。彼が見たかった自由な世界は、こんな世界なのだろうか。彼が今の世の中を見たら、なんと言うだろうか。
彼の所感で語られる哲学は、今でこそ核心をつくものであると理解できるが、当時は自由を語ることは危険思想とされた。そんな右向け右の世の中で、時代に流されず客観的に物事を判断し持論を展開できる芯の強さは、まさに私がなりたい自分の姿そのもので、美しい生き様だなと思った。
彼にはなれなくても、彼が夢見た世界を一緒に夢見ることはできる。私は彼が夢見た「世界中どこにおいても肩で風を切って歩く日本人」という理想を受け継ぎたい思った。アジア人差別がまだ横行するこの世界で、西洋化が進み日本人であることすら誇りに思えないようなこの世界で、みんなから憧れられるかっこいい日本人になりたい。
そして、彼らのように命まではかけられなくても、誰かのために少しだけ自分を犠牲にすることを許容したい。一日一日を大切に生きたい。他人に対する優しさは我慢せず惜しみなく与えたい。自分が生きたことでこの世界を少しでも良い方向に進めたい。
知覧の桜並木を眺めながら、そんな優しい感情が涙とともに溢れた。
野畔の草 召し出されて 桜かな
(普段はただの畔に生える雑草だが、特攻隊として桜になることができた)
これは、若干二十歳で没した原田栞少尉の突撃前の句だ。
知覧に咲く満開の桜がひらひら一枚ずつ散っていく様子を眺めていると、特攻隊で没した青年たちの顔が浮かんできて涙が溢れる。本当に美しい景色だった。
私はこれからも毎年春に日本中に咲く桜を見ては、1年間の自分の反省会をしながら彼らを想って涙を流すのだろうと思う。
今日も桜を眺めながら特攻隊員をはじめ、日本のために戦ってくれた先輩たちからの声が聞こえてくる。
「私たちが生きたかった未来で、あなたはどう生きていますか?」
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