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自己紹介

改めまして、
「人生をもっと本音で生きるあなた」の応援部キャプテン!
メンタルコーチの山崎尚子です。

「なおちん」
と呼んでくれる人が多いです。

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私のこれまでの話と、
これからの話を
ご紹介させていただきます。

長文になりますが
お付き合いいただけますと
大変嬉しくて小躍りします。


忘れられない幼少期〜高校生

長野県の片田舎に生を受けた私は、
野球少年の弟と、
どんな人の懐に入るのも上手い妹の姉として育つ。

学校帰りに、友達と近所を流れる川に集まっては、
危険な秘密基地遊びをして近所のおばさんに怒鳴られる日々。

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それでも、みんなとだからなんとかなる!と、
楽しく生活していた。

しかし高学年になると、
思春期を境に「大人は勉強ができる子どもが好きなんだろう」
と、友達の遊びの誘いを断って、家で勉強する連れない奴に変貌。

担任の女教師が、勉強ができない同級生(LDの友達)や
忘れ物が多い同級生(ADHDの友達)に
体罰や暴力を振るっていた様子を見て、
「あの罰を受けないようにするにはどうすればいいか」
「あの教師を辞めさせるにはどうすればいいか」

を、毎日考えていた。

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これが原因で変貌した部分も大きい。

中学生になると、哲学的なことを考えるようになる。
教師相手に
「生きていく目的はなんですか」
「仕事で一番大切にしていることってなんですか」
「優しさってどういうことですか」

などと、真面目に聞いて回っていた。

私から見たら
「コイツやばい奴」だよ完全にw

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コーチングのセッションをしていて、
質問が思い浮かぶ瞬間が楽しいと感じるのは
おそらくこの体験があるからに違いない。

教師たちはとても真面目に
私のこの質問に付き合ってくれ
時には
「そんなことよく思いつくな〜」と
十分な時間をとって考えてくれ
みんなとてもユニークな答えを教えてくれた。

しかし、私生活では
この辺りから同居していた祖父の家庭内暴力が激化。
特に母親に対してはひどかった。

決まって夜勤で父がいないときに
警察沙汰になるような感じで祖父は暴れる。
物を投げて、窓ガラスが割れる。
近所の人が通報してくるれたパトカーが来る、
って感じ。

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私は幼い妹を抱いて、弟の様子も見ながら
「大丈夫、大丈夫…」
っていつも思っていた
(し、声にも出ていたと思う)。

内心、全然「大丈夫」ではなかったけど。。。

この頃から
「母親には迷惑はかけてはいけない
(ただでさえ祖父のことで大変だ)」
「弟妹は守らなくてはいけない」
「自分の気持ちには蓋をしていくことが一番いい」

ことを学習する。

が、これが後から大惨事に。


そして、いよいよ
私たち5人はこの家を出されるのだ。

追い出される形だったけれど
私は本当に良かったと思った。
父がこの決断をしてくれたことに感謝したし、
父親として「家族を守る」とはこういうことだって姿を
私は見た気がした。


自由しかない大学生

東京の大学に進学し、教職を志しながら
演劇を観るためのアルバイトに精を出していた。


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英米文学科では演劇のゼミに入り、
シェークスピアやチェーホフといった渋いお勉強もしたが
やはり流行りのミュージカルは楽しかった。

と同時に、
法学部のゼミの聴講生としても学ぶ。

ここでも、人の心の動きに興味があり
内観療法を扱っている法学部教授のゼミに直談判して
特別にメンバーに加えていただいた。

刑務所や少年院で用いられている「内観」。

「してもらったこと」
「してさしあげたこと」
「迷惑をかけたこと」

の3つについて
自分の人生を振りかえる療法だ。

1週間缶詰の合宿にも参加したし
また少年法の改正について、
法学部の同期と文化祭で発表もした。
(私は一体何学部?とおもったよねw)

それでも
「ボランティアとは何か」
「リストカットをする人たち」
「いじめの原因」
などについて、ゼミで延々と論じる時間は
私の中でとても有意義な時間だった。

と、やりたいことばかりをやっていた大学時代。

初めて受けた教員採用試験は不合格

就職活動も半ば失敗したが、
1件葬儀屋に内定が決まった。

でも、ずっと頭の中にあった
「教員」への情熱を捨てきれず
長野に戻って非常勤講師をすることになった。
(非常勤講師は、教員採用試験を突破していなくてもなれます。)


20代に夢が1つ叶った?

「教員になる」夢が叶った。

でも、それは本当に叶ったのかな……
本当のところはよくわからない。

非常勤講師として夜も朝も関係なく働き
給料はたった6万円だったあの頃。
(今なら訴えられてますね…)

その年の教員採用試験、
結果は、また「不合格」だった。

「あ〜ぁ、また不合格だったよ。お父さん、お母さん、ごめん」って
両親に電話したその30分後には、

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「不合格」通知は「合格」通知に変わってた

昔はよくあったことなんだそうだけど、
要はコネ合格

合格通知が不合格になったのは、
単純にミスだと説明された。

それもそのはずだ。
午前3時まで非常勤講師を働かせていることがバレて
さらに教員採用試験も不合格だったら
その講師の親に訴えられても仕方がないだろうから。

その時の私は相当まっすぐな奴で
「最初が不合格なんだから、
『間違えました、はい合格』って…それないでしょ?」

「そんな人が教員になってちゃいけないでしょ?」

「そんなんだから、小学校の時の暴力教師みたいな人がのさばてっんでしょーよ!」
って、悔しいんだか悲しいんだかわからなかった。
でも、先輩方は口々に
「ひとまず正規採用になってから言うんだ」と言った。

お金がない生活がどんな感じかは
痛いほどわかっていた。

お昼の給食の残りをとっておいて
夕飯に食べる情けない感じや、

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校庭の隅に生えている杏の木の落ちた実を拾って
こそこそ食べた経験や、
それでもお金がなくて
両親に1年間仕送りしてもらっていたことや。。。

そんなことを考えたら
諸先輩がたのアドバイスは真っ当だった。

「私には、教員になる資格はないのかもしれないな…」

そんな想いとともにずっと
正規の教員という形で
教壇に立っていた。

この出来事は、その後
私をよりガムシャラに働かせ、
「そんなはずはないよ、あなたは教員にふさわしいよ」
という声を聞きたいばかりに
違う方向へ突っ走っていく。

誰もやったことのない教材、
誰も試したことのない授業、
それを探して試して、
生徒が伸びたり
気づきを得たりしたら
私は認められるような気がして走っていた。

それも、
4年後の東京都の教員採用試験合格とともに
一旦は落ち着く。

「あぁ…私は、本当に認められたんだな…」って。

まぁ…そういうことじゃないよねって、
今なら思えるけど、
若かったんだな。

20代のワタシ。


30代は子育ての10年に

結婚をして3人の男の子に恵まれた。

教員は楽しかった。
本当に本当に、やりがいのある仕事だった。
(↓辞めたワケはこちらにあります)

でも、それと並行できるほど
子育ては楽じゃない
と思い知る。

幼少期の頑張り気質が仇となり
産後うつ燃え尽き症候群に。

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「夫の働きやすい環境を、私が作らなくちゃ」
「子どもたちには毎日手作りの料理を作らなくちゃ」
「仕事もきちんとしなくちゃな。子どもがいるから仕事が遅いとか思われたくない」
「苦しくて頑張っていないと、仕事してるって感じがしない」

って、
相当曲がった思考の癖
苦しめられる。

っていうか、
私が私を痛めつけていく

誰かが痛めつけているわけではなく
私が私を痛めつけている状態。

でも、この時は原因がまだわからない。

とにかく
「協力してくれない夫のせいだ」とか
「管理職が配慮してくれないからだ」とか
人のことばかり悪者にしていた。

でも、全然状況は変わらない。

子どもと二人で過ごす1日が辛すぎて
抱っこしながら泣けてくるし、
復職して通勤していても
電車の中で涙出てくるし。

これはもう限界なんだろうな…

って、駆け込んだのは、
地元のおばちゃんカウンセラーさん。

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この人が、
私を救ってくれたのね。

「あなたはもう十分がんばっていますよ」
「そんなにがんばらなくても大丈夫」

って、

それ聞いただけで大号泣だった。。。

私が長いこと
私自身にかけてほしい言葉だった。

誰かにかけてほしいと思っていた
言葉そのものだった。

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今の自分も
昔の自分も
癒えていくキッカケを
そこでもらった。

そこから、
大学時代、
いやもっと前の
中学校時代から興味のあった
「心のこと」を扱うお仕事を
やってみたいな→やりたいな→やってみよう→やろう!
ってなっていったんだよな〜。


これからの10年は

50年先にまだ残っているだろう仕事の一つに
「教師」がある。

でも、結構上位に
「カウンセラー」もある。

人はいつの時代も
最後は
人によって癒されたり
諭されたりするのかもしれない。

確かに、
心が参ってしまった時に
AIロボットに
「チョウシハ イカガデスカ?」
とか聞かれても
な〜んかあったかくなる気配しないよな。。。
答えたくなくなっちゃうなって思う。


戦後、貧しい暮らしから我慢を余儀なくされて
厳しく育てられた私たちの親世代。

その親世代に育てられた私たちもまた
思考の癖は半端ないと言われている。

「本当はもっとこう生きたいのに、口から出る言葉は本音と逆」
「自分でこうしたい意思があるのに、他人や家族を優先してしまう」

そんなふうになってしまっているのは
あなたのせいではない。

「親のせい」となると半分正解かもだけど
親を責めたところで、
何も生まれない。


それならば
今から自分が自分にできることをしていくことが先決だ。


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この先の10年は
私があのおばちゃんカウンセラーに
救ってもらったように

次は私が人の癒しになれるよう
準備をする時間。

準備とは言うけど、
止まっているワケじゃない。

走りながら準備する時間。

まさか、
座学でインプットだけする時間に
しようとは思っていない。

つまずいて転んでも
走り続けられる時間でありたい。

悔しい思いをバネに
今までがんばってきた自分が隣にいるじゃないか!

こんなにがんばり屋さんで
今まで自分を見守ってきてくれた自分が
となりにいてくれたら
きっと私は大丈夫だ!!


まずは3年先に実現したいこと

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2021年3月、育休コミュニティMIRAISのメンバーと一緒に、
ドリームマップを作りました!

3年後の自分はこんな感じ!
夢が叶った2024年の3月の自分が、
夢を実現した今を語ってくれてます!

「2024年3月、3年前に始めた自分のビジネスが軌道に乗り始め、私は子育ても仕事も諦めないフルキャリ心理カウンセラーとして、クライアントさんのためになるべく経験を積むため、毎日小さな挑戦を通して新しい自分と出遭う体験を積んでいます。
クライアントさんに信頼してもらえる機会も増えたと実感でき、SNS発信を通してそれが対価としても実感できるようになったので、3年前に教員をやめた時と同じくらいの年収に戻ってきました。嬉しい嬉しい!w

この波が積み重なって、自分の一番の味方は「自分」だと思える人が増え、その人らしく楽に生きていける社会になっていったらいいなぁと、日々活動しています。

旦那さんの実家に帰って建てた家では、家族や友人と毎週末BBQをベースとした交流会をもち、笑顔あふれる時間を過ごしたり、ワークショップを再開したり、夜は旦那さんとしっぽり飲んだりする、まるでバーのような家を楽しんでいます。
念願のカウンセリングルームを自宅にオープンもでき、月一でセミナー講師として出張するお仕事も入るようになりました!

相変わらず旅行と写真に目がない私は、初の海外家族旅行(ハワイ)を実現しました。旅行へ行く前のワクワクも家族とシェアし、大切にしています。使っていなかったテントも、キャンプの面白さを実感した夫が「キャンプいくか!」と率先して言うようになり多用していて、私もノリノリで便乗するので、キャンプ用品がどんどん増えています。置き場所が困るくらい。

家族や、MIRAISのメンバー、埼玉や長野の友人たちも、自分の本当にやりたいことをやって笑顔で過ごしています。

私も、今日はこの後、もうお仕事が入っていないので、スタバでチャイラテを飲んだ後、帰ってきてゆっくり子供達の宿題をみて、本日のお肉料理にとりかかり、寝る前にはみんなの背中と手首と足裏に「オレンジ」のアロマオイルを塗ってあげようと思います。自分には、オレンジとラベンダーとアダプティブ!あ〜いい1日〜♪」


長文を最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました。

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