大森靖子を聴くなんてメンヘラだと決めつけて敬遠するのは絶対間違ってる多分 / 「シンガーソングライター」大森靖子
大森靖子さんの歌を結構聴きます。キャラじゃないことは自分でも分かっています。大森靖子のファンと言って思い浮かべるようなピンクが好きな女の子からは程遠い、金髪ショートにトレーナーを纏った私。集団の中で孤立したことはない、はずだし、生きやすそうな人に見えるんだろうなって思う。でも本当は全然そんなことなくって、大きすぎるやる気の波に翻弄されながら、自分を保つのに必死です。結局みんなそんなもんじゃないですか?
大森靖子さんは、血みどろピンクの感情をそのまま歌詞に落とし込む才能があります。どうでも良くなって、ぜんぶ辞めたくなったとき。先走る感情にブレーキがかけられなくなったとき。極端な状態にいるときに聴く大森靖子の楽曲は、もはや処方箋です。
いくつか好きな曲がありまして、それをたくさん紹介したいな〜って思っているのですが、とりあえず今日はひとつだけ。
「シンガーソングライター」
この曲は、ストーリーとして説明するには難しい曲だと思います。それなのに、しかも私はシンガーソングライターでもそのファンでもないのに、この曲を聴くと説明できない力に引き寄せられてしまいそうになるんです。
共感こそ些細な感情を無視して殺すから
この歌詞を聴いたとき、スッと胸に落ちたんですよね。確かにそうだな、と。「分かる分かる〜」って言ってるときって大体考えることを放棄しているし、心にある魚の棘くらいの違和感をなかったことにしているなって気付かされました。歌に共感して心が救われているときも同じ。曲を聴いて、その歌詞で自分の感情を言語化してくれたように感じて満足しているようでは、問題は解決しないのでしょう。
これもまた曲への共感なので、皮肉なものですね。
この曲は、他にも考え込んでしまう歌詞で溢れています。頭から見てみましょうか。
ゆれる やれる
電車もビルもおわりの道具に見えたら
ぼくも なんか 生きてるだけで
加害者だってわかった
初っ端からゆったりとしたテンポ感で超絶パンチラインが繰り出されます。飛び込み・飛び降りによる人生の終了を指しているであろう電車とビル、そしてそれを見て死を連想する「ぼく」。被害者でなく加害者として捉えていることから、この曲の主人公の自己肯定感の低さが読み取れます。生きていてごめんなさい、自分なんてこの世にいらない存在、むしろ邪魔な存在。そんなところでしょうか。
野菜や肉 断面をラップ ポカリで全部治りゃしない
ここ、流れが綺麗で意味を考えずとも惹かれます。野菜や肉の断面をラップする場面を想像しましょう。人参や玉ねぎを半分使って、残りをラップするとき、求めているのは「鮮度」ですね。無理矢理気持ちを保とうとすることの難しさを歌ってくれている気がします。
なんなら抱いてもいいから
ここ、とても好きです。全てを壊して自分も無くしてしまいたくなるときに、この曲のこの歌詞があるだけで、救われる。ダメな自分を柔らかく抱きしめてくれる気がするんです。自暴自棄ともとれる表現が、逆に心地いいです。
と、いくらあげてもキリがなくて全引用になりそうなのでやめておきます。
心に歪な隙間が出来たとき、唯一埋めてくれるのが大森靖子ちゃんの音楽です。
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