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笑い袋の緒が切れる ⇑くだらないエッセイ⇑

 現代はまさにストレス社会だ。街を歩いていると、今にも堪忍袋の緒が切れそうな人があちらこちらにいる。危ないので、そういう人には近付かない方が身のためだ。堪忍袋の緒が切れそうな人は、自らのイライラ加減を意図的に放っている。「俺は怒っているんだ!」「私は腹が立っているのよ!」ということを周囲に伝えようとしているのだ。
 ところが、今にも笑い袋の緒が切れそうな人はあまり見かけない(ここでいう笑い袋とは、ボタンを押すと笑い声が出る巾着袋のことではありません)。なぜなら、笑い袋の緒が切れそうな人は、その体裁を意図的に隠そうとしているからだ。
 だが私の目をごまかすことはできない。電車の中で漫画を読みながら、あるいはスマホを覗き込みながら、肩がプルプル震えていたり、もしくは、むやみに咳払いしてみたり、座る姿勢を変えてモゾモゾしてみたり…。何が可笑しいのか、私にだけはこっそり教えてほしい。

 堪忍袋であれ、笑い袋であれ、緒が切れることは滅多にない。そうならないように堪えるのが日本社会のマナーなのだが、漫画家の蛭子能収さんが、『ひとりぼっちを笑うな』(角川新書)というエッセイ本で、「葬式で笑ってしまう」と書いていた。
 その概要はこうだ。 
 葬式に参列しても悲しいと思えないことがある。そんなときに周りに合わせて悲しそうなフリをしていると、どこかのタイミングで、その葬式全体が喜劇のように思えてきて笑ってしまう。そして一度そのループに入ってしまうと、我慢しようと思えば思うほど笑いがこみ上げてくる……。

 まったく、不謹慎にもほどがある。だが、蛭子さんの気持ちは私にはよく分かる。
 私にもこんな経験がある。それは友人の結婚披露宴で、新郎の伯父さんが祝辞を述べる場面だった。紋付袴の初老の伯父さんは、物凄く緊張している様子だった。司会者のアナウンスで紹介され、席を立ち、マイクスタンドの位置まで進む。右手右足、左手左足が同時に出るナンバ歩き。
「おぬし、サムライか?」
と心の中で突っ込んでしまった。伯父さんは懐から祝辞用紙(山折り谷折りになっている、時代劇の手紙とか卒業式の祝辞で使われるジャバラ折りの用紙)を取り出して広げ、ぶるぶると震えながら、
「どこからそんな声が出るの?」
というような甲高い声で祝辞を読み始めた。その様子を見ているだけで、私は笑いを堪えるのが必死だった。
「笑ってはいけない」
と思い、過去の辛かったことや悲しかったことを思い出しながら必死に堪えていた。祝辞が中盤に差し掛かった頃、伯父さんの腕の震えが激しさのピークに達し、突然、
「ビリビリビリーッ!!!」
と祝辞用紙を真っ二つに引き裂いた。
 私の緒は切れた。いや、司会者を含め、出席者全員の緒が切れていた。宴会場の給仕スタッフはバックヤードに駆け込むという体たらく。不謹慎という意味では、全員、蛭子さんと同類だ。儀式や儀礼の場で求められる厳粛な振る舞いというのは、ときに滑稽さを感じてしまうものだ。

 他人の失敗を笑うというのは、
「人としてサイテー」
である。もしあの披露宴で爆笑したのが私だけだったら? と想像するとおそろしい。幸いにも会場の全員が爆笑してしまったために、私一人が
「人としてサイテー」
と言われることはなかった。

 他人の失敗を笑うというのは、私たち人間だけが行う行為である。
「猿も木から落ちる」
という諺があるが、木から落ちてしまった猿を見て笑う猿はいない。
 その他にも、人間しか行わない行為には笑いが付きまとう。たとえば、人間は良からぬことを企ててニヤリとするが、ニヤリとほくそ笑む犬など見たことがない。人間は上司のくだらない親父ギャグを聞かされ苦笑いしたりするが、あなたは苦笑いするウサギを見たことがあるだろうか? 腹を抱えて笑い転げる熊がいたら怖いだろう。そう、動物は笑わないのだ。

 つまり笑い袋は、神様が人間だけに与えてくれたものなのだから、私たちはそういう自覚を持って、緒が切れないように堪えるべきである。

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