うたかた
長くまっすぐに伸びた睫毛があがっていき、末広の二重の線を作っていく様があまりにも美しくて、僕にはスローモーションに見えた。切れ長の形をした目の、白目の少し大きい瞳の、さらに奥にある真っ黒な部分が僕を捉えた。その瞳に吸い込まれて、目を逸らすことができないまま、先ほどコンビニで買ったガリガリ君ソーダ味をだらしなく垂らし、片手をべとべとにしたまま、その場から動けないでいた。聞きなれたカエルの声や鈴虫の声が遠く、自分と彼女のいる空間だけ非日常に浮いているように感じた。彼女はゆっくりと立ち上がって、僕の真正面に立った。アイス垂れてるよ、と指さしながら悪戯そうに少し笑った。僕の体はそこでやっと金縛りが解けて自由になって、小さくなったガリガリ君を急いで口に放り込んだ。水溜まりを覗き込ん絵でいた彼女に、何をしていたのか聞くと、自分が映るかなって確認してたと答えた。なんじゃそりゃと思いながら、自分も先ほどの彼女と同じようにしゃがんで水溜まりを覗き込んだ。自分の顔が水面の揺れに合わせて歪みを繰り返しながら映っている。ここ最近は夏特有の通り雨が多くて、深夜のこのお気に入りの時間を涼しくしてくれるから僕は割と好きだ。
それから僕は彼女に会うのが楽しみになり、毎日深夜にでかけるようになった。しかし彼女に会える時は気まぐれで、けれども姿を見れない日があることが、逆に僕の脳内の彼女のことを考える時間を増やしていった。彼女は何も教えてくれなかった。名前も年齢も何をしているのかも次の約束も、いつも笑いながらはぐらかされた。僕たちはいつも水溜まりをなぞりながら散歩して、ときどきアメンボを捕まえたりなんかして、僕はなんだか小学生の頃に戻ったような気分になって、彼女といる時は心が安らいだ。けれども、彼女はあまりにも淡すぎる空気を纏っていて、いつかそのうち、いや、今目の前でもふっと消えてしまいそうで、不安になった僕は手をそっと握ってみた。彼女は少し驚いたように僕の目を見たけど、ぎゅっと握り返してくれた。
その日は、夕暮れ時だった。彼女は石垣に座ってぼんやりと空を眺めていて、夕陽に照らされてオレンジ色に染まった姿が綺麗で、思わず見惚れてしまった。僕を見つけると、笑顔になって僕の手を引いて歩き始めた。先ほど夕立がやんだところで、きれいな茜色の空を反射した水溜まりをバシャバシャと踏みながら、彼女は楽しそうに笑っていた。
「あら、夕貴君。」
隣の部屋に住む僕のアパートの大家さんだ。隣に住んでるのにずいぶん久しぶりじゃないのと言って、僕の肩を叩きながら大きな声で笑った。僕はそうですね、と返しながら、僕の手を握っている彼女のことを、大家さんは無視していることに違和感を覚えた。しばらく世間話をした後、じゃあまたと買い物袋を肩に掛け直して、大家さんは帰っていった。彼女は振り向かないまま、僕の手は離さずにただ前を歩いていた。僕は何も聞かなかった。ただ白いワンピースの小さな背中が、夕陽に滲んで消えてしまいそうだった。
それから僕は、帰省したり時々大学に行って研究したり短期でバイトをいれたりと、しばらくはありきたりな大学院生の夏休みを過ごしていた。そういえばここ最近は雨が降っておらず、ずっと残暑が続いていた。なんとなくいないことがわかっていたけれど、それでも彼女の姿を探しに、静まった田舎の風景に身を繰り出すために、家を出た。
夜の23時くらいだった。研究室から帰っている途中で、突然の夕立に降られた。僕は走るか迷ったが、諦めてしばらく雨宿りしてから帰ることにした。近くのバス停の屋根の下で、落ちては波紋を広げ水溜まりを作っていく雫の不規則なリズムを、ぼんやりと眺めていた。彼女はいつも雨が上がった後に姿を現した。虫の合唱を聞きながら、深夜の夏の眠った町に彼女と溶け込んだ時間たちは、ありきたりな大学院生の夏休みに間違いなく非日常を落としていった。僕は彼女が何者でもよかった。ただ、彼女にもう一度会いたかった。
だんだんと雨が弱まってきて、屋根の上から落ちる水滴の速度もゆっくりになってきた頃、水溜まりを踏む音が聞こえた。僕はハッと顔をあげて、音のした方を凝視した。近づいてくる人影は、しばらくして、鞄を頭にのせながら急いで走ってくる男の人だとわかった。9月も半ばになり、夏休みももうすぐ終わってしまう。僕は、彼女はこの夏にしか会えないのだと、何となく悟っていた。
「浮かない顔してる」
僕の好きな透明な声が、僕の耳を突き刺し脳まで届いて、その脳に出された信号が鼓動を早くする。彼女は目の前に立って、僕を見下ろしながら笑っていた。元気ないね、どうしたの?と顔を覗き込んでくる。切れ長の目を細めて悪戯っぽく笑う顔が、本当によく似合う。もう会えないかと思ったと言うと、雨がやっと降ってくれたから、と。
雨が上がって、いつもの静けさが戻ってきた。バス停を出て空を見上げると、大きな満月が、流れる雲の間から見え隠れしていた。雨のおかげで夏のぬるま湯を涼しくした微風に吹かれて、彼女の長い黒髪が揺れた。水溜まりに映った満月も少し歪んだ。その光が反射して、顔半分だけが照らされた、淡く妖艶な空気を纏った彼女は、水溜まりを眺めていた。ちゃんと映った?と聞くと、歪んでて不細工と不満そうに言った。
僕は何も聞かなかった。出来たばかりの水溜まりをなぞりながら散歩した。彼女は相変わらず楽しそうで、そのままふっと消えてしまいそうで、おそらく本当に消えてしまって、もう会うことはないのだろうなとなんとなくわかった。またぬるま湯の風が吹いて、彼女の黒い髪の隙間から見えた目が僕を捉えて優しく笑った。
満月の光に照らされて、いつもよりはっきり見えたはずの彼女の姿は、僕が目を離した隙に、いつの間にか消えてしまっていた。水溜まりに残った満月が、風に吹かれてまた揺れ歪んだ。