
「平等」の意味がわからないよ。
やはり、「ジェンダー平等」という言葉に納得できない。
幼少期の打たれ弱い私に対して、「女々しい男」という女子からの嘲笑は、「イジメ」ではなく「イジリ」だとされてきた。その痛みに耐えた幼い頃の記憶に、救いの手は現れない。
幼稚園の先生は「男の子なんだから、泣かないの」と私に言った。
男子が泣くことは許されない。女子が泣くのは許されるのか?
性別以外に何が違うというのか。ならば、私の涙腺を取ってくれ。
最近見かけるようになった、理工系学部への「女子枠」導入に関連して「ジェンダー平等」という言葉を目にする機会が増えた。
私はつい考えてしまう。
「ジェンダー平等」を目指そうとする心は、その根底に「ジェンダー格差」を持っているのではないか?と。
制度を作って改革しようとする限り、ルールを作り出す人間の格差意識は消えないと思う。制度が格差を示している以上、その環境の男女比率が1:1になったとしても、男女の溝は深まるばかりではないだろうか。女子比率を高くしたから解決する話ではないと考えてしまうのは私だけなのか…
もちろん、職業を検討する際に幅広い選択肢を持てるようにすることは重要だが、女性の職業選択において、理系の職業が隠されているわけでもない。
理工系女性が少ない原因として、能力や学問分野に対するジェンダーイメージが関係していて、特に日本では、男女ともに「女性は理系の進路(学校・職業)に向かない」という性別役割意識が根強いとの指摘がある。また、進路選択において、両親や学校の教師の影響が大きい。
両親や教師の性別役割意識をなくす取り組みをすれば、格差意識が下の世代へ広まっていくことをある程度防ぐことができると思う。どうしてそれを制度づくりに逃げてしまうのか。上に引用した経団連の資料では、いくつかの事例を紹介していたが、事例を示したことで満足してはいないだろうか。
「男子だから」「女子だから」と考え、それを植え付けることをやめれば、いつの間にか性別役割意識はなくなり、ジェンダー平等の状態になると思う。
私は幼くして、格差を受け入れた。「男性にとって、弱さは悪である」というコードに沿って、そこから外れないように自らを奮い立たせてきた。性別による違いを感じたのは、周りの大人の言葉からだった。
「男の子は強い」から、救いの手を差し伸べる必要はないんだよね。
前提条件の「破壊と創造」を教えてくれたのは、哲学だった。
根本的な問いに向き合って、物事の捉え方を変える学問に救われた。
だから、私は哲学が好きだ。私は私の視点を持てばいい。
多数派と大きなズレがあった時は、議論を通じて理解すればいい。
お互いが納得するような結論に辿り着けなくても、相手の存在を受け入れることの大切さを、哲学によって実感した。
異なる立場の人間による議論は、決着がつかないこともある。
安易に結論づけようと仲間に加勢してもらったり、丸め込もうとしたりするのは、「言葉と数の暴力」だ。穏やかな対話を重ねていくべきなのだ。
その中である程度の「ルール」は必要かもしれない。制限があることで、自由を感じられることもある。
ただ、制限するという力は、暴れ出す可能性もある。
だから「制度」を作ることは、極めて難しいことだと思う。
無意識に固まった視点は、時々ほぐさなきゃいけない気がする。
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