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絶対わからない
この間、嫌なことがあって、発言小町風に、chatGPTに相談してみた。すごい有益な、集合知に基づいた答え!!(これは本気)
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私の側からだけの情報だから、一概に相手を非難したくないけど、話の流れで、女性が一番モテる年齢みたいな話になった。彼曰く「20歳くらいの頃は黙ってても、どんな見た目の女性でも、男性が寄ってきたと思うけど、20代後半になったら段々そうでもなくなってくる」「30歳を越えたら、女性は急にモテなくなる」「男は、若いころは年上の女性に憧れるものだけど、30歳を過ぎてくると若い女性がよくなってくる」「自分はたとえ1歳差だとしても年上の女性は嫌だし、男は大体そういうもの」etc……。
この間たぶん20分くらいだったと思うけど、私としては「いつまでこの話を聞かされるんだろう……」と思いながら拝聴していたため、2時間くらいに感じた。また、最近ストレスで目の下が痙攣するのだが、このときの私の眼輪筋は3秒に1回くらい痙攣していたと思う。
一般論としてそういう話があるのはもちろん肌で感じているし、そうなんだろう。しかし言うまでもなく私は男性の欲望の対象として生きているわけではなく、年齢とともに蓄積されてきた経験や思考があり、それらを含めた私という存在は、女性である以前に価値があると思っており、価値がある。
私が嫌だったのは、「若い女至上主義」みたいな世の中的事実があるとして、そのことを自分が一番好きなはずの女性に得々と演説して聞かせる必要があったのだろうか……というところ。つまり、気遣いとか思いやりの問題である。男性が若い女性を好きなのはわかるけど、一応交際関係にある「わたしとあなた」の関係性の中で、その事実をことさらに強調して、30代にのっかって人生の重さに日々辟易している彼女に追いうちをかける必要があるのかよ、ということである。
彼にはそういう無神経なところがあり、そういう人間だなと思って付き合っている。私が上記発言に対し「本当にデリカシーないよね。最低」と伝えたところ、叱られた犬のように落ち込んでいた。
さて、ここで、この痴話喧嘩から何が生まれたかを考えてみる。
彼がこのことから学び得たのは、「彼女に年齢のことを話すと機嫌が悪くなるから、今後はやめておこう」という程度の処世術でしかない。
でも、私が彼の発言で不快になった背景として、現代令和の日本で生きている30代の女が、この年齢に達するまでに周囲からかけられてきた言葉、態度、重圧、セクハラの数々……といった蓄積があることは、絶対に、(これは断言できる)絶対に、伝わってない。
いくら言葉を尽くしても、男社会で男に囲まれて生きてきた彼にとっては、理解し得ないことだろう。そもそも見えている世界が違うのだから。というか、世界は、男に対するときと女に対するときで、態度を変えるのだから。私たちは異なる世界線で生きていて、それを言葉で伝えようとしたって限界がある。私が、男性の「下半身に血が集まる」感覚がわからないように、彼も「のたうち回るほどの月経の痛み」はわからないだろう。
彼だって、女は気楽だよなとか、女にはわからない、と思うことが多々あるはずだ。
私はゴッホの絵がとても好きで、ゴッホにとって世界は、彼の描いた絵のように見えていたのかな、と思うことがある。そうだとすると、彼の感覚は常人からはかけ離れていて、理解されず、生きることは苦難でしかなかったかもしれない。現にゴッホは生前には絵画を評価されず、頭を銃で撃ちぬいて死んだ。(発作だったらしいけど)
わかり合う、ということは、ひどく甘い響きに感じる。恋人となんでもわかり合えたら、なんて素敵なこと! であると同時に、ひどく恐ろしいことである気もする。想像してみてほしい。こちらが何か言ったら、その背後にある経験のすべて(とはいかないまでもざっくり全部)までが伝わってしまったら?
例えば10代の鬱々とした暗い日、学校からの帰り道に、赤黒い夕陽がどんなふうにどろっと溶けて沈んでいったか、あるいは休暇の日に、海水浴のあとの皮膚に貼りついた砂がどんなふうにざらついていたか、または、人生で一番つらかった時期に、家から遠いところで孤独に夕暮れを迎え、どんなふうに不安な子どものような気持ちになり、そのときの地下鉄の蛍光灯がどんなふうに白々しかったか……
こんなことがわかり合えてしまう人と、人間的に暮らすことって不可能じゃないかなと思う。でも、わかる人がいないとは言わない。生涯で巡り合うかどうかはわからないけど、そういう人間がいても不思議ではないという気がする。でも、そういう人と出会うことは、「運命」とは言えても、幸せとは言えないと感じる。あまりにも精神的すぎて、地に足のついた日々を送れるとは思えない。剥き出しの神経の傷つけ合いの日々がくるのだろう。その先には、破滅と死だけが待っている。
早乙女ぐりこさんの「速く、ぐりこ!もっと速く!」(百万年書房)には、わかり合えないけどそれでもわかり合おうとしたい、ということが書かれていたと思う。誰かと関係を築くことは、運命でも破滅でもなく、小さなぶつかり合いの中で、少しずつ理解を深めていくことの積み重ねだ。「普通の日常」のためには、全部を晒して、ばらして、言葉にして、伝え合うことはできない。時には見て見ぬふりも、水に流すことも必要だ。
……でも、そういうふうにうまくできないから、苦しいのだし、すべてをわかり合えたらいいのに、と切実に願う。極端な結論に魅力を感じて、もう全部終わっちゃえばいいのに、とか考える。思考の渦から抜け出て、どこか遠くへ行けたらいいと。