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『東京セブンローズ』 人をつくるのは国家か言語か

面白い小説を読んでると、どんどん物語の世界にのめり込んでいってしまいます。

面白ければ面白いほどページを閉じても本の世界は止まらず、日常生活が侵食されて行きます。他のことをしつつも頭の中の半分はまだ小説の世界に取り残されていて、上の空。

何か思いつくことがあると、例えば読んでいる内容、その何が面白いのか、どこにどうして感銘を受けたのか、小説の中の状況に対して自分ならどうするか、以前に読んだ本との関連性や現実との対比などなど、誰かに話して聞かせずにはいられなくなります。読んでいる内容を話し、聞いてもらうことでようやく自分で自分の考えていることが分かってくる。
そして何か手応えを感じたことがあると、ときには手帳に、ときにはnoteに、どこかに書きつけることで考えがはっきりと輪郭を表してくる。

小説を読んで感じた手応えを自分の外に出すことで物語が自分の体験の一部となり、そこでようやく一冊の読書が終わるように感じます。


昔何かの本に夢中になっていた私を見て、「本を読んでいるんじゃなくて、その中に生きているんだね」とパートナーに言われました。なるほど。そんなふうに考えたことはなかったけれど、そう言われると言い得て妙な気がしました。

私にとって面白い本というのは、別の世界を生きさせてくれ、そして現実の世界に戻って来ると手にしっかりと何かを握っていた、そんな本だと思います。そしてそんな小説の世界に集中しているときの震えるような高揚感は格別です。

この一週間、そんな高揚感と没入感に酔わせてくれたのが、井上ひさし著『東京セブンローズ』

トイレに行く間も惜しくなるほど面白く、ページをめくる手が止まりませんでした。お茶を飲むためお湯を沸かす間もキッチンの煮える鍋の前で立ち読みしていました。年の瀬にして華々しくもこれは今年読んだ中で1番の名著です。

『東京セブンローズ』 井上ひさし著

あらすじ
昭和二十年春、東京は根津の団扇屋主人・山中信介は毎日詳細な日記をつけていた。戦時下の苦しい庶民の生活を洒落っ気ある小気味良い語り口で書きつける山中。しかし日本は敗戦し、イデオロギーは一晩でガラリと変わる。アメリカ占領軍に統治される中、山中は占領軍が「日本語のローマ字化」を目論んでいると耳にする。


前半は戦火の非常時を生き抜く庶民のユーモアに感嘆し、後半は打って変わって冒険活劇の如く、占領軍によって撤廃の危機に陥った漢字と日本語を救うために奔走する怒涛の展開。上下巻と長編作なだけはある、一粒で2度美味しい作品です。


主人公には、戦争で大儲けしている吉澤家に嫁ぐ長女があり、近所には闇商売で抜け目なく儲けている商才のある兄がいます。自身が戦場に直接生きている訳ではありません。

それでも戦争下。食べ物や日用品が手に入らなくなり、移動が制限され、娯楽が規制され、空襲にあい、家族を失い、物質的にも精神的にもじわじわと追い詰められて行きます。
とくに汲み取り式便所の汲み取りをして貰えなくなるエピソードは想像力が鼻にツンと効いて怖くなります。当時の日常生活の様子が細々と具体的書かれ、目の前に鮮やかに浮かびます。その些細な描写はドキュメンタリー映画を見ているようで、井上ひさしさんは一体どれだけ下調べをしたのかと恐れ多くなります。巻末五ページに渡りぎっしりと書かれた引用参考文献の数には驚きました。


戦争下で恐ろしいのは戦場だけでなく、日常における思想の統制も怖い。時局や政府の方針に反すること、批判、戦果の予想、戦争に対して消極的な印象を与えることを口にするだけですぐに「非国民!」と槍玉にあげられる。言いたいことが言えない不自由。隣人で監視し合う仕組み。権力を持つ人にはヘイコラしないとすぐに思想犯扱い。道理の存在しない世界。想像するだけで骨身に染みて痛くなります。
日本がアメリカ兵を殺すことは正義。アメリカが日本兵を殺すのは悪という論理がまかり通っていることにもゾクっとします。

しかし山中さんの日記にはいつも洒落が効いています。機転の回る洒落っ気ある会話や言葉遊びが根津の町を生き生きと描きます。困難な時代を生き抜く鍵は、いや、困難な時代だけでなくどんな時代でも今日1日を生き抜く鍵はユーモアなのです。そしてそのユーモアの土台になるのは、物事を客観的に捉えられること、何より自分自身のことに対して距離を置いて観察し、カラッと笑える知性と粋な心だなと思いました。


終戦を迎え、戦中の高揚から目覚めると一気に現実に引き戻されるかのように、格段と世知辛い物語になります。戦中の日記の方がよっぽどほのぼのしていたと言う皮肉。

戦争下、物資だけでなく思想も制限される生きにくい時代に、覚悟を決めて町内会長に盾つくような信念と理智を失っていなかった山中さんには感心することも同情することも多々あったのですが、しかし敗戦し、世の中が変わる中で、山中さんの行動原理にも綻びが増え、感情的にもなる。一家の主人の立場は揺れる。
敗戦とともに国の威厳だけでなく、ひとりの男の威厳も崩れ去ったようで、それもそのはず、この敗戦国を仕切っていたのは男たちの理論なのだから、仕方がない。
この辺り、国家の状況が一家における主人の立場に露見する、山中さんと奥さんの丁々発止のやりとりは誠に見事としか言いようがなく、作者の巧みな手腕に唸ります。


そして耳にする『日本語ローマ字化計画』。GHQ民間情報教育局言語課長にして日本人以上に巧みに日本語を操るホール少佐が語る漢字撤廃論には、説得力があるから面白い。ここから物語がどんどん加速します。

確かにホール少佐の言うように、漢字習得に相当な時間を費やするのは非効率、ローマ字にすれば日本語習得に必要な時間は激減。その分空いた時間を他の勉学に費やすることができる。そして日本の生産効率は飛躍的に向上する。占領軍にとっても日本語習得が容易になり、目下不足している検閲官の増員に繋がる。
それに日本語とはなんとも奇怪な言語で、状況によって主語がコロコロ変わる。だから日本人の自我の認識は脆く、何を考えているのかわからない。名前の読み方にしてもいく通りもあって、読んだだけではわからないという不便さ。極め付けは天皇からの詔書を音読させ、日本人が漢字を正しく読むことさえできないことを証明させる。歴史的に重要な宣言ですら正確に一般市民に理解されないで、どうして文明国家の一員として迎え入れられるだろうか。
という漢字撤廃派のホール少佐の見解は、日本語が母国語の者としては思いつきもしなかったような意見だがなるほど確かに一理がある。

しかし、もちろん私は漢字撤廃反対論者。読み進めながら山中さんと手に手を取り合って憤ってしまいます。日本が他国に日本語を押し付けていた歴史を突きつけられると顔を上げられなくなります。


山中さんの日記は当時実際に日常の読み書きに使われていたという「正字正かな」表記で綴られています。珍しい漢字や言葉遣いに一瞬戸惑いますが、そこは時代が変われど日本語。徐々に身体に馴染んでくるようで、これが慣れてくると意外と読めるようになってきます。

そして全編を通して貫かれた小気味良い語り口が味わい深く、非常時の物語でありながら機知に富んだ目線には文句なしに笑ってしまう。日本語の言い回しを堪能できる喜びを感じます。
一見長々と続くように感じる前半の日常生活の描写には、日本語と日常というものへの作者の強い想いが込められていたのだと気がつきます。読んでいる側にも自国の言葉への愛着が増して来ます。だからこそ余計に後半の漢字撤廃論が盛り上がるのでしょう。

果たして山中さんと東京セブンローズたちはどうやって日本語を救うのか!
あとは読んでからのお楽しみです。


読み終えた今、特に印象に残っているのは終戦の劇的な思想転換と日和見主義の民衆の描写。今まで神だと信じていた、日本人の精神の柱だった天皇が同じ人間だったと言われたのはどんな気持ちだったのでしょう。昨日まで駆逐すべき憎きアメリカだったのに、一夜明けると崇拝すべき対象がガラリと変わる。GHQ本部前に集まりマッカーサーが現れるのを心待ちにする日本人。万歳三唱!マッカーサーを賛美する手紙を送る者たち。小説の中にも出て来ますが、実際マッカーサーにラブレターを送る日本人夫人たちについての記事を読んだことがありました。


例えば山中さんのご近所の町内会長のような生き方、読んでいる間腹が立って仕方がありませんでした。しかし時勢を読み、長い物に積極的に巻かれに行く生き方は卑しく見えますが、でもそれも世の中をしぶとく生き抜く信念のひとつなのかもしれないなと今は思います。


でもやっぱり胸を打つのは、世間の信じていたものが突然崩れ落ちる激動の時代を逞しく生き抜き、アメリカに打って出るセブンローズたちの気概。戦中・戦後と現在とでは状況は違えど、政治がおかしなことになり、ジャーナリズムも信頼を失った現代にこそいよいよ存在意義を増す作品であると思います。

国家と国民を同じものだと信じていた、国家がなくなれば日本人は存在できなくなる、だから一億総玉砕。そう思い込んでいた。しかし大日本帝国がなくなっても、日本人がいて日本語がある。国の実態とは、ただの当時の支配層のことだった。そんな簡単なことにも気づけなかったと恥じる新聞社写真部に勤める高橋さんの言葉に考えさせられます。

国が消えても、言葉が残る。

たとえ国という概念に思い入れはなくとも日本語には多分に愛情があるもので、言語がいかに個人と民族、歴史、文化を縫い合わせるに絶対不可欠な存在であるかと改めて思い知らされました。だからこそ誰かのアイデンティティを奪い、イデオロギーを塗り替えるには言葉を奪うのが最良の方法なのでしょう。

言葉が紡ぐ日常を慈しむ気持ちを強くし、自国の言語だけでなく全ての言語に敬意を払いたくなる一冊でした。


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