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最後の宵の逃避行

彼と2人きりで会うのは、今回で2回目だった。
そして、これが、たぶん最後の夜だった。


彼は明日、結婚相手と一緒に、南の方に
引っ越すことになっていた。

歳はわたしとあまり変わらないし、初めて聞いた時、
男性にしては早いな、という感想を持った。

先週突然、「最後に飲みに行こう」と誘われた
ときは、驚いたけれど、「いいよ」と何の疑問も
懸念もなく、即答してしまった。

彼は、絵に書いたような真面目な性格だったのだ。

友達には、「何かあるんじゃない?」と
楽しげに茶化されたけれど、彼に限ってそんな
ことないだろう、とすぐに思い直して、わたしは
当たり障りのない和食のお店を予約した。


お店はカウンター席で、今まで並んで座ること
なんてなかったから、思いがけない距離感に
少しだけ落ち着かなくなり、喉なんて乾いて
ないのにやたらと水ばかり飲んでしまう。

彼も同じことを思っているのか、しばらく
おしぼりを両手で弄んでいた。

その日頼んでいたコースの料理が一品ずつ
テーブルに届き始めてからは、お酒のせいも
あってか、少しずつ言葉数が増えてくる。

メインの肉料理が来る頃には、お互い饒舌に
なっていて、いつも通りの軽口を叩き合える
和やかな空気が充満していた。


「どうして、結婚しようと思ったの?」

学生の頃の話の流れで、ふと、前から疑問に思って
いたことを、何の気なしに口にする。

お酒が強い彼は、その時も顔色ひとつ変えずに、

「うーん、この人と、一生一緒にいるんだろう
なって、思ったんだよね。」

「どうしてそう思ったの?何かきっかけでも
あったの?」

矢継ぎ早に質問を重ねるわたしに、
彼は少し困ったような照れたような笑顔を見せて、

「特に、きっかけというのはなかったんだけど。
でも、後から聞いたら、彼女も同じこと言ってた。」

ははっ、と軽やかに笑って日本酒をくいっと傾ける
彼の横顔が、なんだか急に直視できなくなって、

「ふうん。」と、曖昧な返事をしてから
目の前のグラスを手に持って傾ける。

中身はもう、空っぽだった。

なぜか少し決まりが悪くなり、
「ちょっとお手洗い」と言って席を立った。


席に戻ってくると、「この辺に行ってみたいバーが
あるから、連れてってもいい?」と、わたしのコートとマフラーを手渡してきた。

「いいよ、行ってみたい。あ、お会計は?」

「いいから、いいから。とりあえず出ようか。」

外に出ると、お酒であたたまった身体から一気に
体温が奪われていくのを感じるほど、空気が冷たく
ひんやりとしていた。

わたしが「いくらだった?」としつこく聞いても、
「最後だからいいんだよ」とかなんとか、理由に
なっていない返事をしながらひらひらと手を振って、
真面目に取り合ってくれない。

なんならわたしの方がお祝いをしないといけない
立場なのに、余裕そうな彼は、次のところでね、
と言って地図を見ながらすたすたと歩き始めた。


バーは人が1人か2人、ぎりぎり通れるか通れない
かくらいの細い道に面した、ビルの2階にあった。

暗くて重い扉を開けると、中も外と変わらないほど
暗く、静かにジャズが流れていた。

重厚感のあるカウンターやソファ、ワインのような
深い赤をした手触りのよさそうなカーテンが、
初めて「バー」というところに来たわたしの心を
そわそわと落ち着かなくさせる。

背の高い丸い椅子の背を引いてわたしをカウンターに
座らせた後、「適当に頼んでいい?」と
慣れた素振りでバーテンダーの男性に注文をする。

甘いカクテルは苦手だし、ハイボールですら
木の味がして美味しいと思えないわたしが、
バーで飲めるお酒なんてあるのだろうか。

何より、その重厚感や場所柄からして、
決して単価が低いとは思えなかったので、
そういう意味でも、ハラハラしながら
その一杯が来るのを待った。


「お待たせしました。」

落ち着いた、どこか品のある佇まいの男性が
すっとグラスを目の前に差し出す。

その仕草だけでもう、くらくらしてしまいそうに
なりながら、いただきます、と小声で呟き
グラスを口につける。

…おいしい。

香りはいつも友達に一口もらうだけでやっぱり
いいやと返してしまうウイスキーの木の感じに
似ているのだけど、その香りに角がないというか、
柔らかくて、優しく鼻先をくすぐる。

とろりと流れる液体は、ほんのり甘くて、
飲み込んだ後、一瞬だけじりっと喉が熱くなり、
しばらくすると鼻を朝の森のような香りが抜ける。

とても、上品で、洗練されていて、美味しかった。

わたしが言葉を失っていると、「どう?」と
心配そうに彼が顔を覗き込んできた。

「ウイスキーがおいしいって、生まれて初めて知った。これ、かなり好きかも。」

その返事に心底安心した、というようにくしゃっと
笑った彼は、「連れてきてよかったあ。」と言って
カウンターの下で、長い手足をぐーんと伸ばした。


「俺、今まであんまり人と深く関わったこと
なかったんだよね。」

彼がそんなことを口にしたのは、3杯目のグラスが
もう少しで空になりそうな頃合いだった。

バーという非日常的な雰囲気も相まって、
わたしはいつになくふわふわして上機嫌で、
いつもなら誰にも話さないような悩みや、
幼い頃の記憶なんかについて、ぺらぺらと
話し続けていたような気がする。

そんなわたしの話を聞いてか、彼がそんなことを
突然口にした。珍しいな、と思った。

わたしが「ああ」とか「ううん」とか曖昧な声を
発したのが聞こえていたかはわからないが、
ウイスキーや焼酎のボトルが並んでいるのを
真っ直ぐ見つめながら、話を続ける。

「小学生の時、いじめられててさ。それ以降、
俺は同年代の人と深く関わるのを避けてて。
かなり年上の人とばっかり親しくしてたんだよね。
だから、大人びてるってよく言われたし、
こうやって、お酒にも詳しくなって。」

暗闇の中、少しだけ彼の震えた声が聞こえる。
表情は見えなかったけれど、なんとなく、今、
彼の目がうるんでいるような気がした。

「でも、ここ最近、同年代もいいなって思ってさ。
もっと自分から殻を破ってぶつかって、腹割って
話しておけばよかったなあ。今日だって、もっと
早く、こうして」

そこで、言葉を切る。

しばらく次の言葉を待ったけれど、その後に続く
言葉が、わたしの耳に届くことはなかった。


「そろそろ行こうか。こんな遅い時間まで、
付き合わせてごめん。ありがとう。」

時計をなるべく見ないようにしていたけれど、
さすがに一週間の疲れが出ているのか、
見て見ぬふりができない程眠気が襲ってきていた。

「そうだね。今日は、ありがとう。」

大通りに出て片手を挙げ、タクシーを止める。
たったそれだけのことなのに、その仕草でさえ、
この夜の空気の中では彼をうんと大人に見せた。

黒い塊の扉が自動で開き、中に入る。
彼も乗るのかな、と思っていたら、

「俺はここから歩いて帰れるから。気をつけてね。」

そう言って、手のひらを握ってくる。
握手かな、と思ったら、彼が離した手のひらに、
1枚の紙が残っていた。

「え。ちょっと、こんなもの…」

そう言って彼を見上げると、

「足りないくらいかもしれないから。
今日はわざわざ、ありがとう。元気でね。」

手を挙げてまたあの軽やかな笑顔を見せた彼は、
その左手で、そのままタクシーのドアを閉めた。

タクシーがすーっと走り出す。

住所を告げた後、握り締めた手のひらにある、
それを見る。少し皺皺になった、5000円札だった。


最後まで、彼は、彼だった。

友達に何かあるかもねと言われて、いやそんな
まさか、なんて笑って返したけれど、本当に、
指一本触れてこなかったし、いつも通りだった。

結局1円も渡せないまま、最後まで、颯爽と格好よく
別れを告げてきた。その一連の流れが華麗で、
自然で、なんだかとても腹が立った。

同年代、なんて彼は言ったけれど、そんな風に
自分だけ格好よくいようとするから、距離が
できるのではないか。

お門違いな怒りだということはわかっていた。
けれど、そう思わずには、この感情を昇華させる
ことができなかった。

本当は、知っていた。

彼が、誰よりも繊細で、傷つきやすくて、
いかに愛されたいと思って生きてきたのかを。

そしてそんな幼い感情に蓋をして、笑って、
背伸びをしてきたのかということも。

バーのカウンターでウイスキーに口をつける彼の
横顔は、もう誰が見ても大人のそれだったけれど、
一度だけ見たあの表情は、まだ幼い面影を残して、
わたしの胸をふいに締め付けた。

それを思い出して、急に、幼かった時の彼を
思い切り抱きしめてあげたくなった。


ピロン、と電子音が鳴る。

暗闇でスマートフォンの電源をつけると、
「今日はありがとう。気をつけて帰ってね。」と
いう短いメッセージが、白く光って浮いて見えた。

返事はせずに、電源を切って
コートのポケットにしまう。

帰ったら、急いでお風呂に入って、早く寝よう。

こんな時間までお酒を飲んでいることや、
それでもちゃんと早く起きて、次の日も会社に
行かないといけないと思うと、自分が、思った以上に大人になってしまったんだなということに気がつく。

それは、少し心がすかっと軽くなるような、
何か大切なものを忘れて途方に暮れているような、
そんな不思議な感覚を持って、いつもわたしの
心を揺さぶる。

でも、あと2,3年したら、この感覚すらも、
思い出せなくなってしまうような気がする。

彼とはもう、しばらく会うことはないんだろうな、
と思いながら、窓の外を流れる白やオレンジの光に
目を細め、そのままゆっくり目を閉じた。

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