「夏の匂いがわからない」彼にわたしは、救われた。
わたしの恋人は、夏の匂いがわからない。
夏の匂いだけじゃなくて、金木犀の香りが空気に溶けはじめたら「秋がきたなあ」と感じることとか、春になったら明るい色の服を身に纏いたくなる気持ちとか、そういった季節にまつわるものすべて、「わからない」のだと言う。
「菜波は俺が、夏の匂いがわからない人でもいいの?」
以前、彼にそう聞かれたことがある。
「それでも、いいよ。」
そのときのわたしは、たしかそう答えたような気がする。
だけど今同じことを聞かれたら、
「それでも、いいよ。」
じゃなくて、
「だから、いいんだよ。」
と答えるだろうなと思う。
彼と出会って、わたしはわかった。
自分がずっと求めていたのは、「共感してもらうこと」ではなくて、「理解してもらうこと」だったということを。
彼とわたしは、正反対。
彼とわたしには、正反対だな、と感じる部分が多い。
それは普段一緒に過ごしていて、ことあるごとに感じている。
わたしは目の前のことに没頭しがちで、先のことを考えられない。
彼は、いつも未来を見据えていて、今この瞬間に集中できない。
わたしは、一緒にいる人に共感しやすい。
彼は、自分と他者を明確に線引きするから、感情移入することがない。
わたしは、数字を見ただけでアレルギー反応を起こす。
彼は、数字を見ると目の前にいろんな世界が広がる(らしい)。
わたしは、朝に弱い。彼は、夜に弱い。
…あげ出したら、キリがない。
一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、わたしと彼の間にある「違い」が芋づる式にどんどん見つかって、もはや笑ってしまうくらいだった。
まだ出会ってから1年も経っていないけれど、「人間って、こんなにも違う生き物なんだねえ」と、お互いによく感心している。
あまりにも違うから衝突することもあるし、「このくらい言っておけば、相手もわかるだろう」と思って口にしたことが、うまく伝わっていなかったりすることも多々ある。
だけど今のところ、なんとか乗り越えられているし、その度に自分への理解も深まるから、それすらも最近は、面白がることができるようになっている。
今までの恋人は、自分と似ている人。
わたしはこれまで、自分と似た環境で育ってきた人や、価値観の近い人とばかり一緒に過ごしてきたのだなあということに、彼と出会ってはじめて気づいた。
それまで自分の周りには、わりと多種多様で個性的な人が多いと思っていたのだけれど、彼と出会ってから、「もしかすると違うのかもしれない……」と思うようになった。
たとえば、一緒に道を歩いているときに、
「あっ、今、カレーの匂いがした。」
と同じタイミングで同じことに気づく瞬間や、
「空気がひんやりしてきたね。冬がやってくるんだなあ」
と、季節の移ろいを感じる場面。
今までは、相手と同じタイミングで同じようなことを感じたり、口にしたりすることが多かった。
だからあえてそこに関して深堀りしたり、会話をすることは、ほとんどなかった。
相手もきっと同じことを感じているのだろうなあと思っていたし、相手もそうだったから、わたしにもその先を聞いてこなかったのだと思う。
それが、「相性が合う」「価値観が合う」ということなのだろうなと信じていたし、実際に、そういう相手とは一緒にいてストレスがほとんどなかった。
まさに「居心地のいい関係」とはこのことだ、と思っていた。
わたしの"当たり前"は、彼にとっての"特別"
だけど、いまの恋人だとそうはいかない。
そもそも街を一緒に歩いていると、見ている景色や考えていることが、全然違って毎回驚く。
たとえば商店街を歩いているとき、わたしは今、自分が歩く速度でちょうど視界に入ったお店の看板や、通り過ぎたばかりのお店のショーケースにあるケーキなどを見ている。
てっきり彼も同じものを視界に入れているのだろうと思って、
「あ、あれ美味しそうだね。」
と言うと、彼はずっと先を見ていて、
「あそこの横断歩道の信号がさっき青に変わったから、この速度で歩くと、ちょうどいいな。」
などと考えていたりする。
全く別の人間なのだから当たり前だろう、と言われてしまうかもしれないのだけど、わたしにはそのことが、衝撃的だった。
そしてある日、わたしが「夏の夜の匂いが好き」と言うと「それってどんな匂いなの?」と聞かれて、答えに詰まることがあった。
「自分以外の人も、なんとなく感じ取っているもの」だと思っていたから、「それがどんなものか」なんて、正直、今まで考えたこともなかった。
最初の頃、わたしは彼にいろいろなことを聞かれるたび、「この感情は、なんて説明したらいいんだろう……」と、悩むことが多かった。
けれど、最近はよく自分でも「この感情を彼に説明するとしたら、どんな風に伝えられるんだろう」と、無意識に考えることが増えた。
今までは、自分にとって日々の背景に溶け込んでいた"当たり前"が、そこだけ浮き彫りになって、きらきら光って見えるようになった。
彼に尋ねられるたび、「わたしには、こんなにも好きなものや大切にしているものがあったのか」と驚くし、「これって、みんなが同じように感じるものではなかったんだな、自分の感覚なんだなあ」と、安心もする。
彼とわたしが「同じように感じる」ということがほとんどないから、それが「自分のものなんだ」だとわかると、なんだか自分の感覚が特別なもののように感じて、愛おしく思えるのだった。
"共感" できないから、"理解" できる。
わからないことや気になったことがあると、とにかくなんでも質問してくる彼は、わたしが何か言うたびに「それってどういう意味?」「どうしてそう思ったの?」と聞いてくる。
その度に、「この人はこんなことまで聞いてくるのか……!」と、なぜかこっちがハラハラしながら、躊躇なく何でも深掘りしてくる彼に、つい感心してしまう。
あるとき、彼はこんなことを口にした。
「俺たちはきっと、お互いに "わかってほしい" っていう想いが強いから、ちゃんと考えていることや感じたことを、口に出して伝えていくのが大事なんだと思う。」
そう言われたとき、わたしの中で、すべてが繋がったような気がした。
わたしは今まで、自分と似ているはずの「多くを口にしなくても、通じ合えている(と思っていた)人」を思い浮かべた。
そして、そんな相手と一緒にいるときに「根本的な部分までは理解されていない。距離を感じる。なんだか寂しい」と感じていた理由がわかった。
それは、お互いに「たぶん、相手が言っているのはこういうことだろう」「相手はこう感じているんだろう」と勝手に想像して、わかった気になって、ちゃんと会話をして「理解」をする努力を怠っていたからだ、と。
似ているからこそ、ある程度は想像できてしまう。だから、その先はつい、自分の感情や価値観に当てはめて考える。
本当のところは、本人に聞かないと何もわからないのに、お互いにそうやってわかった気になって、どこかで少しずつすれ違って、寂しさや不満が積もってしまっていた。
だけど、彼の場合はわたしが感じていることを「共感できない」から、限りなく「理解できた」に近い状態になるまで、話をとことん聴いてくれる。
わたしの言葉や行動、そういう「事実のかけら」をたくさん集めてきて、そこから想像して、最後には、ちゃんと合っているか、わたしの言葉で確認してくれる。
彼は絶対に、わかった気にならない。
だから、一緒にいて安心するのだ。
共感はできないし、想像も容易ではない。
だけど、だからこそ、決して「わかったつもり」にならず、ちゃんとわたしという人間を、理解しようとしてくれる。
そんな彼と一緒にいると、「自分はひとりじゃないんだ」と思うことができる。
彼の在り方がとても心強くて、だからわたしは、「わたしのままで、生きてもいいんだ」と、はじめて思えたのだ。
それは、"共感" という弱い地盤の上ではなく、"理解" という、山頂は果てしなく遠いけれど力強い地面に両足をつけている彼だったからこそ、感じることのできた安心感だった。
「そんな簡単に理解しないで」 vs 「もっと理解してほしい」
彼と過ごしていて改めて実感したのは、「価値観が似ている・似ていない」に関わらず、「自分たちは他人同士である」ということを忘れてはいけない、ということだった。
わたしは前にも書いた通り、とても感情的なタイプで、共感性もかなり高い。
だから、「今の発言、相手を傷つけていないかな…」とすぐ不安になったり、「こんなに楽しいんだから、きっとこの人も好きなはずだ!」と1人で盛り上がって、相手の感情を置いていってしまうこともよくある。
だから、彼のようにまるっきり自分と感じ方が違う人と一緒にいることは、「コミュニケーションに慎重でいられる」という意味では、相性がいいのかもしれない。
わたしが今まで、人と関わる中で「この人と一緒にいると、寂しいなあ」と感じていたのは、「なんとなく自分のことをわかった気になって、その先をわかろうとしてくれないんだな」と、思っていたからだった。
相手が自分に対して持っているイメージと、本当の自分は違う。だけど、その人のイメージ通りのキャラクターを演じてしまう自分に、嫌気がさすこと。
固定観念に縛られて、「明るくて前向きな自分」として振る舞うことに、苦しくなること。逆に、本当はもっと打ち解けられるはずなのに、距離を置かれてしまうこと。
できることなら、自分の心の声をもっと相手に伝えたかったし、素の自分を知ってもらって、その上で「好きだ」と言ってほしかった。思い返すと、そういう場面は山ほどある。
だからいつも、「そんなに簡単に、わたしのことをわかった風に言わないでよ」という小さな怒りや諦めと、「ほんとうは、もっとこの人にわかってほしい」というもどかしさや寂しさが、心の中でせめぎ合っていたのかもしれない。
彼は、夏の匂いがわからない。
だから、わたしがどんな風に季節を感じているのか、丁寧に聴いてくれる。
わたしは、彼が見ている、数百メートル先の未来が見えない。
だから、それが一体どんな景色なのか、聴いてみたいと素直に思う。
ときには、「わからない」の壁の厚さに、お互い絶望することもあるかもしれない。
だけど、それでも。
手っ取り早く「わかったつもり」で蓋をしないで、地道に「限りなく、"わかる" に近いところ」を目指して、対話を続けていきたいなあと思う。
最終的に行き着く先が、「わかった」でも「わからなかった」でも、どちらもきっと「それはそれで、面白いね」と、笑い合えるだろうから。
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