きっと小さな欲望が、 "生きる" を選ぶ理由になってる
「あなたはよく、"生きててよかった"とか、"生きてみたいと思えた"って表現を使うよね。それは、実際にそう思っているの?それとも、相手に強い印象を与える表現だから使っているの?」
先日、ある人に突然そんなことを聞かれて戸惑った。
自分が普段、そんなに「生きる」という言葉を頻繁に使っていたという事実も、「相手にとって強い印象が残る表現だから、あえてその言葉を選んでいるのかもしれない」と思われていたことも、全く予想外だったのだ。
前者に関しては、指摘されてからはじめて、「たしかにわたしは、そういう表現を使うことが多いなあ」と気づいた。
けれど後者に関しては、「相手に強い印象を与えられるかどうか」という基準で言葉を選ぶことはあまりないな、というのが答えだった。
普段わたしが感じたことや思ったことを言葉にするときは、自分の心の動きや状態にぴたりとくるものを、数ある言葉の中から手繰り寄せて、見つけて、掴んで、そこではじめて「言葉」という、目に見える形にする。
海水を両手ですくって、指の間からこぼれ落ちないように、ゆっくりと掌を丸めこむときのように。
一瞬で過ぎ去ってしまう、季節の変わり目の空気を、めいっぱい吸い込んで身体に溜めておこうとするときのように。
それはあくまでも、自分の心の動きや忘れたくない瞬間を、形にするために、残しておくために行っている作業で、「誰かの心に強い印象を残せるかどうか」は、二の次だ。
だから、先の答えを今ここですると、わたしは本当に、心からそう思ったときにしか、そういった表現は使わない。
(もちろん、必要に迫られて相手のために言葉を選ぶ状況も、あるにはあるのだけれど。)
「生きててよかった」とか「明日も生きてみたい」というのは、受動的に、ただの状態として「生きている」のではなくて、もっと主体的に、「自ら"生きる"ということを選びとっている」ニュアンスが強い。
相手がどう思うかより、自分の心がどう思っているのかを聞き取って、選び抜いた、言葉。だから、受け取り手がどう感じるかは、あまり考えていなかったんだよね。
そう伝えると、「へえ、それはすごいね」と、戸惑ったような、感心したような返事が返ってきた。
この会話をしてから数日間、
どうしてそう思っているんだろう?
いつからそう思っているんだろう?
という疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け巡った。
思い当たるのは、2つのできごとだった。
ひとつは、3年間付き合っていて、将来の約束もしていた恋人に突然、誕生日の前日に振られたときのこと。
毎日毎日、「自分は何のために生きているんだろう?」「これから、一体何を信じて生きていけばいいのだろう?」と思いながら過ごしていた。
自宅から最寄り駅までの道はバス通りで、道幅は狭いのに、大型のトラックやバスがビュンビュン通り過ぎる。
そこに、何度飛び込もうと思ったことか。
そのときは、「いや、それはさすがに運転手さんに申し訳ないな…」と冷静に思っている自分と、もうひとりの自分がいた。
「ちょっと待って。わたしはまだ、行きたい国も、見てみたい景色も、食べてみたい料理も、たくさんある。こんなにやりたいことがたくさんあるのに、ここで人生を終えるなんて、嫌だ…!」
その後の半年間、すぐに想いを断ち切ることはできず、結局、沼のような日々を過ごすことにはなってしまった。
けれど、それでも「生きることをやめない」選択をしたのは、「もっと人生でやりたいことがある」という、わたしのしぶとい欲があるからだった。
ふたつめは、社会人になってからの話。
社会人1年目の夏から冬、わたしは毎日、朝、自宅から最寄り駅までの道を歩きながら、太陽の光を浴びているだけで、涙が溢れ出してくる日々を送っていた。
「生きているだけでしんどいな…」
「このまま消えてしまいたいな…」
と思いながら過ごしていて、比喩なんかではなく、毎日「息をすること」だけで、精一杯だった。
けれど1年目の終わり、人生を変えるような人との出会いがあって、今まで自分でも気づかなかった夢がはじめて仕事として実現して、「生きていて、よかった」と心から思った。
その人に出会って、わたしが好きなものや大切にしてきたことが、もしかすると他の誰かにとっても大切で、誰かの心を救うことができるかもしれないのだということに気づいて、文章を書き始めた。
そこでできたつながり、得た感情や関係性は、今となってはわたしの人生の土台にすらなっている。
生きていて、こんなにも世界が輝いて見える瞬間があるなんて。
こんなにもあたたかく、優しい気持ちで溢れることがあるなんて。
そう思える瞬間が、どんどん積み重なっていくうちに、わたしの中には
「もっと、生きてみたい」
「明日が、知りたい」
という感情が芽生えはじめた。
こうしてわたしは、自分の心が大きく震えるようなおいしい料理に出会ったときや、毛布のように柔らかな優しさに包まれたとき、弾むようにわくわくしてしまうようなできごとや人に出会ったとき、
「ああ、生きていて、よかったな」
「明日も、生きてみたいな」
と、自然に口にするようになっていた。
もっと、おいしいご飯が食べたい。
もっと、美しい景色を見てみたい。
もっと、いろんな人に出会いたい。
もっと、たくさんの感情を知りたい。
わたしにはこんな欲が、まだまだたくさん、自分の中に眠っている。
語り出したら止まらないくらい、好きなもの、やりたいことが、たくさんある。小さいけれど、しぶとい欲望のかけらが、たくさんあるのだ。
だから、まだまだ、生きていたい。
生きていて、こんな感動や幸せを感じられれることを、一回一回、噛み締めて、味わっていきたい。
きっとわたしは、この欲望が枯れ果てることがない限り、「生き続ける」ことをやめないのだろうなと思うし、自ら選んで「生きる」を選び続けるのだろうな、と思う。
これからも、ずっと。