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一生忘れられないと思っていた香りも、いつかはあっけなく消える。


本当の恋の終わりは、忘れていることにも気づかなくなったときだ。



去年使っていたハンドクリームがまだ少し残っていることに気づいて、ふとそんなことを思う。ゆっくり蓋を開けてみると、あの頃いい香りだと思っていたそれは、いま嗅ぐとそうでもないような気がした。

残りわずかになったそれの、花のような香りが辺りに充満して、あの人のことを思い出す。

そういえばこれ、一年前に彼がくれたんだった。
今のいままでこの存在のことも、彼のことも、すっかり忘れていた。



はじめて出会ったときから、ちょうど一年。



結局わたしたちは、季節を一周することもできなかった。

今となっては、そのことに対してなんの未練もない。むしろ今の今まで、彼のことをすっかり忘れていたくらいだ。

もしかすると永遠にこの沼から抜け出せないかもしれないな、なんて本気で思っていたあの頃、まさかこの恋が、一年後にはこんなにあっさりと終わりを迎えているなんて、想像もしていなかった。




***




彼と最後に会ったのは、夏の入り口に差し掛かった、じんわりと熱のこもった、空気が肌に張り付くような日のことだった。


「誕生日、お祝いさせて。」


ずっと先延ばしになっていたわたしの誕生日を祝う、という口実で、しばらく途絶えていたLINEが、突然また動き出した。

昨年の冬は、彼からの連絡をいつも待っていた。

大抵、月曜日か火曜日の夕方くらいにメッセージが届く。仕事の合間、コンビニに行く途中なんかにその文面が目に飛び込んでくると、舞い上がって、ついつい週末のデートのことばかり考えて仕事なんて手につかなかった。

彼の名前が表示されるたび、心臓はきゅっと縮んで、全身があつくなる。

そんな日々が、少なくとも一年は続くのだろうなと、幸せと諦めを行ったり来たりして、結局、甘い誘惑に負けてしまうのだった。




誕生日のお祝いとして指定されたのは、彼とはじめて会った日に訪れた、カウンター席のある割烹のお店だった。

あのときは、彼とこんな関係がはじまるなんて1ミリも想像していなくて、単純に「自分よりひと回りも歳上の人たちと、会話ができている」という状況に、浮き足立っていた程度だった。

彼からの久しぶりの誘いに、

「行きたい」という気持ちは、たいしてなかった。
「会いたい」という気持ちは、もっとなかった。

だけどついあの頃のように、さも乗り気であるかのような返事をしてしまう。もはや条件反射だった。

文面だけ見ていたら、彼はわたしの心境の変化には、まったく気づかないだろう。

ご飯を食べたら、すぐに帰る。そう固く心に誓って東横線に揺られていると、みるみるうちにあの頃の記憶が蘇って、寒くもないのに身震いした。




「久しぶり。元気だった?」

駅の改札から少し離れたところに立っていた彼は、数ヶ月前よりも顔が丸く、お腹の肉付きがよくなっているような気がした。

たったの2ヶ月。たぶんそんなに変わっていないはずなのに、少し前まで彼が纏っていた輝きは、もうほとんど感じられなかった。

なんとなく、隣を歩く彼との距離を取りたくて、日傘を差して歩く。

歩きながら、「誰にも見つかりませんように」と、あの頃とはまったく逆のことを念じる。

あの頃は、誰かに見つけてほしかった。

第三者にわたしたちが見られることによって、ふたりが一緒にいるということを、事実としてちゃんと認識したかった。

そうでもしないと、わたしたちの関係性なんて、実態のない幻のようなもので、すぐに崩れ落ちてしまいそうだった。




あたりは蝉の音だけが鳴り響き、人の声もしない。  

「おいしかったね。でも、お酒まだ足りないでしょ?暑いし、そこのお店で飲み物買ってから、タクシーで行こうか。」

少し前までは、その自然なエスコートに「さすが、歳がひと回りも違うとスマートだなあ」と目を輝かせていたし、その言葉を合図に、「ようやく2人きりになれる」と、ふわふわした気持ちでいっぱいになっていた。

だけど今は、その言葉を聞いても、全身から体温がすうっと下がっていくだけだった。

きっと、アルコールが身体に入れば、そんなの気にならなくなる。もしかすると、久しぶりだから、好きな気持ちを忘れているだけかもしれないし。

そうやって、無理に前向きに言い聞かせている自分に、「なんでこんなことしているんだろう」と苦笑してしまったけれど、それも次第に暑さと身体に残った日本酒で、徐々に薄れていった。




「はじめてここにきた日も、この部屋じゃなかった?」

そんな風に言う彼の声が、遠くの方から聞こえてくる。

はじめて彼に会った日、わたしはひどく酔っていて、翌日は断片的な映像だけが頭の中に残っていた。

でも、たしかにこの部屋は、見覚えがある気がする。

「最近、全然連絡くれなかったけど、元気だった?ほんとに仕事、忙しいんだね。俺も忙しかったけど、もう落ち着いたから。もっと息抜きする頻度、増やした方がいいよ。」

優しい表情で肩を抱き寄せられたとき、電子タバコの香りが鼻先をくすぐった。

あの日、朦朧とした意識の中で、この世でいちばん嫌いだった香りがいちばん忘れられない香りになることを、確信した瞬間。

その映像が、再生される。だけど目の前にいるのは、やっぱりあの頃の彼ではなかった。

いや、わたしの方が、たぶん変わってしまったのだ。




ああ、わたしもう、この人のこと全然好きじゃないんだな。

彼の顔を正面から見つめながら、そう確信する。

思い出は、綺麗なまま閉まっておいた方がよかった。あのまま会わないでいれば、この恋は、ずっと美しいままだったのに。




いや、それはきっと嘘だ。本当は、最初から、美しくなんてなかった。

わたしたちの関係なんて、「関係」と言えるのかすらわからないほど一方的だったし、なんの約束もなかったし、いびつで常にアンバランスだった。

いつも彼だけに帰る場所があって、わたしはそれを見て見ぬふりして感情に蓋をしていた。

それでも寂しいとか悲しいとか、そういう感情を抱くことがほとんどなかったのは、わたしの方も、それ以上の責任を背負うだけの覚悟がなかったからなのかもしれない。

そんな関係は、最初から脆くて、いつ終わってもおかしくないものだった。

ただ、それだけのこと。




気づいたら深い眠りに落ちていて、目が覚めたときに、部屋には電子タバコの香りが充満していた。

アルコールの熱で、身体があつい。ろくに水も飲まずに数時間過ごして、頭も痛むしずっしりと重い。空気が乾燥していて、喉もひりつく。

こんな感覚すらも久しぶりで、だけどきっと、もうこんな状態になることも、この先ないんだろうなあと思うと、なんだか心がすうすうして、椅子に座っている彼の背中に目をやった。

出会った頃から、ずっと見てきたこの角度。
彼の丸くて安心感のある背中が、わたしは好きだったんだなあ。

今はもう、人間の身体としか思えないそれを見つめながら、本当に終わったんだな、と、静かに目を閉じた。




夕方に別れるのは、久しぶりだった。
高層ビルの隙間に、橙色に染まり始めた空が見える。

駅前で別れるとき、彼は今までと同じように、

「次食べに行くもの、考えておくね。また都合がいい日、連絡して」

と言って片手を挙げた。

いつもなら駅の改札まで見送ってもらっていたけれど、今日はそうしたくなかった。「このまま買い物して帰るね」と言って、わたしも手を振った。


「じゃあ、またね。」


彼が言い終わるか終わらないか、というタイミングでくるりと踵を返し、駅に併設された商業施設に向かってわたしは歩き出す。

身体はまだ熱を帯びていて重たかったけれど、心はなんだか清々しくて、軽かった。

この街に来ても、もう彼を思い出すことはないだろうな、と思いながら、この恋をあっけなく過去のものにしてしまった、まだ出会ったばかりのまっすぐな瞳の彼を思い浮かべていた。




***




あれから半年、わたしはすっかりその人のことを思い出すこともなくなった。

今日このハンドクリームを棚から見つけるまで、一度も思い出さなかったことに、自分でも驚いている。


まさか、こんな日が来るなんてなあ。


大切にしてくれていた恋人を手離してまで、のめり込んだ恋だった。

だけど結局、その恋も、また別の恋によってあっけなく収束して、今はもう霞んで、色褪せている。

掌からただよう香りを吸い込みながら、これと同じだな、と思う。




彼はいま、どんな人と一緒にいるのだろうか。

わたしにしたのと同じように、当たり障りのない優しい言葉とタバコの香りを、相手の記憶に刻んでいるのだろうか。

それとも、ちゃんと帰るべき場所に帰っているのだろうか。





わたしは。

たぶんもう、あの場所には戻らない。
この香りをこの先意味のあるものとして認識することも、きっとない。





最後の最後まで使い切って空っぽになったチューブを、ゴミ箱に捨てる。



ステンレスの箱にぶつかったプラスチックの容器は、かつん、と小気味よい音を立てて、底の方に消えていった。






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