「円満な関係」と引き換えに、「愛する力」を失っていた。
「人は誰しも完璧じゃないから、一人の相手で、全ての欲求を満たすことはできません。だから私は、複数の人との関係性の中で、自分の欲求を満たすことができれば、それでいいんじゃない?って思います。一人の相手に固執して、傷つく必要なんてないんです。」
ある人のインタビュー記事に書かれていたこの言葉に、数年前、わたしは大きなショックを受けた。
そもそもこの記事は、その頃毎日のようにLINEでやり取りをしていた友人が、わたしを心配して送ってきたものだった。
当時のわたしは、他人に対して、特に「恋人」という関係性にある相手に対して、勝手に期待をして、その期待通りの結果にならないと「裏切られた」と感じ、傷ついたり悩んだりすることが日常茶飯事だった。
そんなわたしの愚痴や悩みを毎日のように聞いてくれていた彼女から、ある日突然、その記事のURLが送られてきたのだ。
この言葉が、わたしの価値観を180度変えてしまった
冒頭の発言を読んで受けたショックは、マイナスではなく、むしろプラスの方だった。
もちろん、読み方によっては、現代の日本社会で生きていくことを考えると、手放しには肯定しづらい部分もある。この考え方に対して、抵抗を感じる人もいると思う。
だけど、「一人の相手で全てを満たさないといけない」と思っていた当時のわたしは、「そもそも、そんなことはできないのだ」という現実を突きつけられたことで、むしろ心がふわっと軽くなった。
自分の他にも、期待をしすぎて苦しんだり悩んだりしている人がいたんだ、という安心感。そして、別に一人の相手から全てを得ようとする必要なんてないんだ、という希望。
一人の相手に固執して、それが依存にも繋がっていたわたしにとって、この言葉との出会いは、わたしの考え方や行動、価値観までも変えてしまうほどの、強い引力があった。
相手に期待しなくなったことで、恋人との衝突が一切なくなった
それからというもの、わたしは何度か出会いや別れを経験し、いつしかこの考え方はすっかり自分のものになっていた。
恋人に対しても「期待」をしなくなったことで、傷ついたり苦しんだりする機会はめっきり減って、昔のように喧嘩をする(という名の相手に不満をぶつける行為) も、ほとんどなくなった。
過去の自分が、なぜあんなに恋人と喧嘩をしていたのかもう思い出せないくらい、相手と衝突することが、一切なくなったのだ。
「そんなに長く付き合ってるのに、全く喧嘩しないなんてすごいね。仲が良いんだね。」
周りにそう言われる度、「今の自分はきっと、昔と違ってうまくやれているんだなあ」と、素直に思っていた。
「相手に期待しない」の形が、歪んでいることに気づいて
けれど。
どうやら、今のわたしの「相手に期待しない」の形は、少し歪んでいるようだ…。
ふとそのことに気づいたのは、「どうして喧嘩が減ったんだろう」と、その理由を何気なく考えていた時だった。
恋人と喧嘩ばかりしていた頃のわたしは、「誰かと付き合う」という経験が初めてだったから、今と比べたら知識も経験も乏しかった、というのももちろん一因としてはあると思う。
けれどそれ以前に、あの頃のわたしは、相手に対して思ったこと、感じたことを全て伝えていた。
そして反対に、今は思ったことをほとんど伝えていない。そこに違いがあるんだと、気づいてしまったのだ。
もちろん、思ったことを何でもかんでも相手に伝えるのは、相手にとっても嬉しいことばかりではないし、言わないほうがいいことだってあるだろう。
だけど、伝えることによって初めて相手が気づくことだってあるし、それによって行動が変わり、2人の関係性がよくなる可能性だって、充分にあるはずだ。
(結局当時は、わたしがあまりにも言いたいことを言い過ぎたせいで、相手に愛想を尽かされてしまったのだけど…)
それでも、笑顔の下に不満を抱えながら、上辺だけの「仲のいい恋人同士」として何年も過ごすよりは、よっぽど真剣に「付き合う」ことができていたんじゃないかと思う。
「一人の相手」に期待しなくなった代わりに「別の誰か」で解決しようとしていた
では、どうしてわたしは相手に思ったこと(ここでは、主に不満などネガティブな感情)を伝えなくなったのかというと、それはおそらく「一人の相手に期待しなくなったから」だ。
わたしはたぶん、期待に沿わないことや違和感を抱くことがあった時、「ここはすごく嫌だけど、どうせ相手のことは変えられないからなあ。」と、瞬時に諦めの感情を持ち出す。
そして、「この話はきっと分かってもらえないから、他の人に相談しよう」とか、「お金がないって言われたから、ここにはあの人と行こう」とか、「その人ではない他の人」で解決しようとしていたのだ。
内容によっては、立場や考え方、好みの違いもあるし、何でもその相手に話したり、一緒にしたりする必要はないだろう。
けれど、これを続けているうちに、本当に大切なことや、本来伝えるべきことまで、気づいたら言えなくなっている自分がいた。
些細な負の感情を伝えることで衝突したり、関係性が悪くなるくらいなら、このまま何事もなかったかのように笑顔で過ごして、別のところで発散すればいい。
そんな風に、現実から目を背けている自分を、目の当たりにした。
自分に「愛する力が足りない」と感じていた理由も、たぶんここにあった
だからここ最近わたしは、「自分に一人の人を愛する能力がない」と感じていたのかもしれない。
一人の相手で全てを満たそうとしなくなったことで、一人の相手と正面から、全力で向き合うことが少なくなっていた。
思ったことも伝えずに、笑顔でやり過ごしてうまくいっている、と思い込んでいた。
今の自分に愛する力がないと感じるのは、「一人の人と全力で向き合う」ということをしなくなったから、なのではないだろうか。
一緒にいる時間ばかりが長く積み上げられて、だけど、振り返ると一緒に歩いてきたはずの道には、足跡ひとつついていない。
それが、「一人の人に期待しない」という考え方に出会ってからの、自分の生き方になってしまっていた。
そう気づいて、わたしは深く反省した。そして少し、落ち込みもした。
ゼロか百か、しかない自分の極端さに、思わず苦笑するしかなかった。
「一人の相手に期待しない」という言葉の、本当の意味
「一人の相手に期待をしない」。
おそらくここには、2つのポイントがあると思う。
まず1つ目は、「相手に期待をしない」ということ。
本来わたしがこの言葉から受け取るべきメッセージは、「他人を自分の意思で思い通りに変えることはできない」という事実よりも、
「だから、相手を変えるのではなく、自分を変える必要がある」という示唆の部分だったのではないかと思う。
相手が変わらないからと諦めるのではなくて、「じゃあ、自分はどうするのか」。
そう考えて、動くこと。そうすることによって、相手との関係性が変わり、未来がつくられていく。
頭では分かっていたつもりだったのに、いつしか自分が楽な方、傷つかない方に逃げて、思考を放棄してしまっていた。
そして2つ目は、「一人の相手に」という点。
仮に一人の相手で満たせない欲求を、複数の人に分散させて満たすことができたとしても、対象が分散しているというだけで、「それぞれの相手に期待をしている」ことに変わりはない。
だから、結局自分は誰にも期待をしていないようで、一人ひとりに別の期待をしていただけなのだ。
誰に対しても、自分の感情や欲求を軸に考えていて、自分が何を与えられるかではなく、自分は相手から何を得られるのか、そういう考えで接していたなと思う。
こうして文字にしてみると、つくづく自分は最低な人間だな…と、穴を掘って自ら土に埋まりたい気持ちでいっぱいになるけれど、これが現実なので、まずはきちんと受け入れるところから始めようと思う。
今度こそ、「愛する力」を手にするために
相手に期待しないことと、諦めることは違う。
そして相手との関係性は、それがどんな相手だって、双方向じゃないといつかバランスが取れなくなって、次第に綻び始める。
自分が満たされたいと思うなら、まずは相手を満たすこと。愛されたいと思うなら、まずは相手を愛すること。
「そんなの当たり前でしょ。」そう思って生きてきたのに、その当たり前のことが、ようやく実感を伴って腹に落ちてきた。
自分には愛する力がない、なんて嘆いていた自分を戒めて、ここから、愛する力を身につけていきたい。今はそう、強く思う。
愛する力を味方につけた自分には、どんな景色が待っているのだろう。
早くその景色が見たいから、わたしは今日から、「わたしの愛し方」を、もう一度探しに行こうと思っている。
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