見出し画像

絵の価格について

まずお金とは…という価値観からの話しでもある。
人それぞれの価値観で良い訳だけど。
私としては恐らくお金に対して絶対とか何より大事とも、思っていない対象かもしれない。
1つのツール、くらいだと思う。

そして絵を描くということ、行為について。
そして出来上がった絵の取り扱いについて。

当たり前だが同じ絵を描く事は、出来ない。
その時の自分は1秒後には失われて居るから。
もうどこにも存在しない。

そしてそういう絵を描いている。

その時の私がそこに居た存在の証明だ。

刻一刻と命は失われている。
ある日突然死がやって来る訳ではない。
生を受けた者全てに平等に在るもの。

だから生きてきた軌跡を残す行為だと
位置付けている。

無意識で描いていることや、
製作が始まると大量に生産されて
止めどなく溢れて止まらない事とか、
紙が無くなるまで描いて、
何か描けないものは無いかと引っ張り出す。
ここはなんとか正気を保ってる…
理性を失えばすぐに人ではなくなる危うい境界線の
ギリギリにいて。
こことの闘いは最近ますます重要性を増してる。
瀬戸際は度々に近くなり競ってくる。
命を削る行為だと思っている。

過去、ある時間を
その瀬戸際を、境界線を超えて過ごしていた
時間があり、身体は知っているから。
そこに身を置くと直ぐに死は我が物顔で
脅威を奮う。

闇はブランケットのように温かい。

そんな場所に居たのも独りだったから。
貴重な時間であった。大事な時間であった。

いま一緒に歩く人が
私をそこから掬い上げて、
掬い上げた責任を取っている。

私もまた、掬い上げて欲しいと願い
這い上がった。一緒に歩く為に。

だから先に述べた、一線を超えない、
人の形を成す努力をしている。

人としての愛を、その輪郭を守る。

そういう理由で、絵を描くというのは
人生の奇跡を残す行為だ。

だから私の絵は、瀬戸際の向こう側を
こちら側の対岸でもう一度見に行く、
そういうことをしているんだと思う。

人の形を成していない自分も俯瞰し
そのままを受容する。
ここが出来た作品の扱いとなる。

醜く、吐き気がするほどの圧倒が押し寄せる。

それでも直視するのは、使命だとも思う。
自分への責任だと思うし、できうる限りの誠意だとも
思う。

そうやって人でありたいと、祈りに似た
そんな思いになる。

悲しくて泣くのではなく、
嬉しくて泣くのではなく、
ただそこにあることに包まれて
涙が流れるものだ。

雨が降り
川になり
大海はまた
雨を呼ぶ。

そういう営みだと思う。

生きるをやってる。
人生で初めての
生きるの中にある
そういう自分に会えた。

誰よりも愛をくれた人に
重荷を背負ってくれている、
隣で眠る命に捧げる。

命あるかぎり
描いたその絵とはどんどん境界線は濃くなっていく。

熟す…

そんな表現が似合うだろう。

同じものが生み出せない理由に加えて、
時間の経過が加わる。

私の進化にはもろとも値しない、深みが増す。

少なからず生まれた子を育てることに
なるし、個展や展示で多くの方に見ていただき
育てて頂く事になる。
多くの人がもっともっと多くの人になり、
絵は存在価値を増す。

それを手元から旅立たせる親の如くの思い。
手放す勇気は年々増すだろうと思う。

その時の価格は、どこか手切れ金の様な
諦めにも似た複雑な思いもあるかもしれない。
自分の一部が他の所へと旅立ち二度と会うことも
もうないかもしれない、別れだ。

そういう絵については値を上げて行くことになる。

全ての絵についてでは無い事も明記しておく。

ドローイングや表現したいことが違うテーマのもの、
アートのある暮らしを推奨したい気持ちから、
もっと軽やかに楽しみたい、そういう作品も
今後増えていくので触れて見て欲しい。

いま描く意匠は、いくつかあるので
カテゴリー分けをそろそろしようと思う。

これからも自由に
好きなように
伸び伸びと
形ないものや、言葉にならない感情や
偽らずそのままに
描いていこうと思う。

どこかで出会うことがあったら、
ぜひ。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集