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「わたし」の前


「あなたはどこからきたの?」
“Where are you from?”
“Où est-ce que vous venez?”

と問われたとき、あなたはどうやって答えるだろうか。
外国で聞かれたなら「I‘m from Tokyo」などと答えるかもしれない。
でも、例えば焼き肉を食べながらロースターに吸い込まれる煙越しに「で、どこからきたの?」と聞かれたらどうしようか。

その相手が、わたしにそのような質問を投げかけるに足る相手か、つまり誰なのか、はとりあえず置いておくとして、そのような、煙の隙間、不明瞭な空間から、ぽんと、投げかけられることがある。


「から」という言葉には、空間的な移動の方向だけでなく、時間的な方向も含まれている。
「いつからいたの?」

「3時間前くらいから」

「ずっとここにいるの?」

「おそらく」

「本当に?」


ほんとうに?

「どこから」「いつから」にわたしは答えらえない。

この問いは、この問いを今投げかけられている私と、答えることを求められている以前のわたしの連続性が前提となっている。
それはそうだ。今私は2時間前に食べた激辛カレーのせいでお腹が痛い。

「のせいで」という因果関係、連綿と続く原因と結果の編み物の中にいると思っている私ならば、普通「どこから」「いつから」に答えらえる。

けれど、その編み目を解析しようと思って、一度編み物の外に飛び出してしまうと、途端に何にも答えられなくなる。糸の繋がっていないわたしは、もはや存在しないのだろうか?

2時間前の私と今の私を繋ぐ漠たる証拠は、この腹の痛み、つまり「からだ」である。
からだは物質であって、しかも有機物で、日をつければ燃える。切り落とせばなくなる。髪を切って別人になった“気持ち”になる人は少なくないだろう。

さて、では「別人になったなぁ」と鏡を見て思う自分、それは何だろうか。

有り体に言えば心とか脳ミソとかそんな感じで、海馬とかシナプスとか松果体とか、なんか難しい言葉を並べてみてもいい。


少なくとも「からだ」ではない何かがからだを見て以前の自分と比べて「変わったな」という判断を下している。

けれど、その判断を下す何かは髪を切る前と後とで、なにか変わったのだろうか。

気持ちは変わる。確かに。髪を切ればすがすがしい気持ちになるし、場合によっては吹っ切れたような気持ちになるかもしれない。

けれどその気持ちを感じている「何か」「どこか」は、変わっていないと、どこかでわたしたちは信じていないだろうか。


「そりゃだって、髪を切ろうと意志したのは私だし、それですっきりした気持ちになるのも私でしょう」

 そうやって考えることで、わたしは私にすっぽり収まりきって安心している。なんだかんだ自己って大事。アイデンティティの確立はいつだって高校生の悩みだし、就職活動では自己分析が勝敗を分けるとまことしやかに言われている。


でも、書き並べられた「私」についての文言を見ながら、うすうす私たちは気づいている。

「これは、わたしじゃない」

 つまり、「わたし」を取り巻く因果律は、ほんとうはほころびだらけで、理論として成り立つようなものでは、ちっともない。


例えば自分史は、「過去の私がこうしたから今の私がこうある」を積み重ねて語られるものなので、因果関係の最たるものといえる。

でも、それって実は後から勝手に因果関係の糸を引き直しただけで、当時の自分は全く今後のことを考えていなかったりする。
歴史は「語られる」ものなのだ。


語りには、いつも語るその本人がいる。
本人が好きなように物語ることができて、そこに真偽の判断の入る余地がないもの、それが自分史。

 

だけど、わたしはこの自分史に乗っかりきることができない。

わたしはずっと、事実的な因果関係の中に「わたし」を見出せないという実感がある。

小学校のとき一人で生きていける大人になりたいと思ったから受験した、最初に見学に行ったから演劇部に入った、などなど。

みんな自分史を語ることに慣れすぎていて、口からスルスルと出てくるけれど、それはどこか一つの叙事詩のようで、温度が感じられない。

その物語の中でほんとうに今のわたしに繋がる過去のわたしが生きていたのだろうか。


あるいは、「過去」というものを少し考えてみるとよくわかるだろう。
あなたは過去の自分に「会う」ことはあるだろうか?
今、ここで過去の自分と対面することはない。絶対に。もっと言えば、自分は自分と対面したことがない。

そのような自分のことを十全に知っていると言えるだろうか。

確かに過去の思い出は、例えば家族とか、他者と共有されて形作られるものだ。

自分個人のものだけではなくて、(私が知らずに)親だけが知っている私の話だってたくさんある。
小さいころからあんたは注射が大好きだったよ、と言われて、なるほどだから私はよく献血に行くのか、と思う。

だけど、この前提になっている部分、他者からの伝聞による「過去の自分」を、信じることができるか?


結局、信じやすさ、あるいは疑わない心の持ち方、なのだろうと思う。

親から語って聞かされたこと、自分が覚えている自分のこと、それらを自分で語りなおして物語ったこと、これら全部を信じられるか否かで、「わたし」にまつわる因果律への信頼性も変わってくるのだろう。


ここまで自分史を否定してきたけれど、別にそのような手段をとってアイデンティティを確立している人を否定する気持ちは全くない。

ただ、そのような手法にどこかしら違和感をもっている人は、それを繰り返したところでずっともんやりしたまま。

今のわたしがそうであるように、この記事をここまで読んでまだ読み進めようと思っている人は少なからずこのもんやりを抱えた人だと思う。

このことに薄々気づいている人たちは、どこか落ち着かない。
自分の置き所、もっといえば自分の今いるところが分からないから落ち着かない。

そしてぼんやりと、あるいは夜も眠れないほど痛切に、「自分ってなんだろう」と考える。
ここでは自分史というものに頼ることはできない。


だから、いったん前に戻ろう、というのがわたしの意図だ。


前、つまり、「私」の前。


わたしが私なんてものを作って、自分を理解しようとする、その前に戻る。

そして「わたし」という不定形なものをもう一度掬って/救ってみようという試みだ。

幽体離脱みたいなことを思い浮かべてほしい。
今ここにいる私を、別の視点、主観が、客観視している。

頭上1メートルくらいから私の姿形を(物理的にも、精神的にも)みている。



そのようなふんわりとした意識でもって、これからも読み進めてもらえるとうれしい。





5/21開催の「文学フリマ東京 36」にて頒布予定の散文です。

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