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未熟な母の回顧録

 早朝。庭いじりをしていると遠くで子どもの泣き声が。
小学生かな。1年生かな。ふと我が子がその年齢の頃を思い出していた。

ハンカチ忘れた

 小学1年生になった娘を近所の上級生と一緒の登校班に混ぜ小学校に送り出してホッとしたのも束の間、家の扉が開き泣きながら娘が帰ってきた。何かあったのかと思ったら、「ハンカチを忘れた」と言う。ハンカチを忘れては学校に行けないというのだ。
 当時の私は初めて子どもを小学校に行かせることで頭がいっぱいになっていた。下の子の幼稚園のお見送りもあるし、時間は限られている。ハンカチを持たせ、小学校まで一緒に連れて行く。下の子たちはまだ幼稚園児と赤ん坊。眠っている夫に声をかけて、娘の手を引き小学校へ。

 今思えば娘の言葉や行動の中にたくさんの鍵を見つけることが出来たんだと思う。でも当時の私は日常に追われ、また小学校に行かせる親としての義務感みたいなものに覆われていたので、その鍵を見ることが出来なかったのだ。

いちいち立ち止まる

 思えば娘は幼稚園バスに乗る時も号泣していた。バスに乗りたがらないので、後から車で送って園の前で先生に引き渡す。お母さんはサッと引いてください、という声で娘の手を先生に渡すと私はサッとその場を去った。背中に娘の泣き声を聞きながら。それが娘を社会に送り出す最善の方法だと思い込んで一生懸命後ろを振り返らない様にした。

 そんな彼女も下級生が入ってきたら、泣いている子を幼稚園の送迎バスの中で慰めたりして頑張っていた。園にも慣れた。
 その流れからの小学校。もう社会にも慣れただろうと思っていただけに、小学校に行きたがらない朝は頭を抱えた。優しくしたり、強く手を引いて学校まで連れて行ったり叱ったり。今思うと当時の私は「学校に行かせる」ことだけが正義だと思っていた。他の子は楽しそうに学校に行っている様に見えたから、なぜうちの子は楽しめないのだろうと真剣に悩んだ。

 それから数年おきにその彼女の反乱は起き、私はその度に頭を抱えた。節目節目でそれに向き合うことは出来たはずだ。でも悲しいぐらいに私の頭の中には「学校は行くのが当然。行かないなんて選択肢はない」が支配していたのだと思う。その後うっすらと他の選択肢が浮かんだ時も、それまでの自分を否定するのが怖くてそこに向き合わなかった自分がいたのも、事実。

首根っこを掴まれて向き合わされる

 そんな私も、子どもたちの成長と共に「学校に行きたがらない」ことと度々向き合わざるを得なかった。究極は私自身が小学校で働き始めたこと。
小学校にはいろいろな理由で「学校に行きたくない」子たちがいて、そのためにチームが組まれていた。そのチームの先生方から学ぶことは本当に多かった。「子どもの気持ちとちゃんと向き合ってますか」とハッキリ言葉では言われなかったけれど、それをじわりと気付かされた。

 そうだ。学校に行くとか行かないという一つのことに囚われすぎて、その子自身に学校生活がどう響くのか、集団生活の中で子どもがどう立ち回っているのかなどもう一歩踏み込んで考えることをしてこなかった。
 目の前に見える「ハンカチを忘れて泣く姿」、「友だちに嫌なことを言われて凹む姿」ばかりに注目をし過ぎて、その奥にある感情と向き合ってこなかった。それを目の前に突き出されて、心が壊れそうになった。

 お腹にきてからずっと一緒に過ごして、我が子のことは全部わかっているつもりだった。私が出したものを食べることしか出来ないから、出来るだけ体に良いものを。手足がジュクジュクするから、病院に連れて行かないと。注射もさせて、寝る前には絵本を一緒に読んで...私なりに愛する我が子にできる限りの善いことを全部してきたつもりだった。

 でも、我が子とはいえ一人の人。私の感情が及ばない部分で感情を動かしている。その中で傷つき、迷い、出口がわからなくなった我が子に、私はしっかり寄り添えていただろうか。それこそ身近にいる私が出来ることだったはずなのに。そう自分を責めた。責め過ぎて嫌になった。
「私が親じゃなかったらもっと幸せだったかも知れないのに」
そう言って泣いた。

 でも、当然そうやって泣いている間にも子どもたちのお腹は空き、夕暮れは迫る。私は子どもたちを風呂に入れ、食事を作って早い時間に寝かしつける。私の迷いも悲しみも悔いも、そうやって日常に溶け込んでいく。でも消えることなく日々出てきては、溶け込んでいく。その繰り返し。

革命前夜

 そんな私もある時、腹を括って自分の罪を受け入れることにした。そして周りに目を向ける。twitterを始めた。1,000人以上の学校の先生、不登校で悩む方々、子育て中の方々と関わる様になり、一人一人の声を聞くフィールドワークに取り組んだ。facebookやインスタグラムは実社会と一緒かまたはそれ以上に使えない。自分の良い部分だけを掬い取って人に見せる展覧会。
twitterはその点、みんなが自分の弱さを置いていく場所。私はそこで初めて子どもたちを取り巻く大人たちの苦悩と向き合った。

 私だけじゃなかった。植え付けられてきた「学校には行かせないと、子育て失敗してる」みたいな感覚と目の前の我が子の苦悩の板挟みで苦しんでいる人たち。そして先生たちもそれぞれ過剰な労働と自分自身の生活の中で苦しんでいた。この苦しみばかりの世界で、子どもたちは果たして健やかに育っていくのだろうか。

 ある日思い立って、我が子に「学校をしばらく休もう」と伝えた。
学校に出かけて「卒業のために必要なものはなんでもします。ただ、学校にはしばらく来させません」と伝えた。その時「それがいい」と承諾してくださった先生方に恵まれた私はラッキーだった。それを伝えた瞬間に自分の気持ちがフーッと軽くなるのを感じた。

学校に行くか行かないかじゃない

 そこからは何もかもがうまくいったように感じる。もちろん人が私の毎日を覗いたら、全然うまくいっているように見えないかも知れないけれど。そこが肝心だと思う。「私にとっては」とてもうまくいっていた。
「学校に行かせるのが義務」「これから人生失敗したら親の責任」みたいな重圧から離れて、目の前の愛しい存在にただ向き合うことの幸せ。
 そして自分自身の声をちゃんと聞くことができる自由さ。私はその良いモデルになれたのではないか、今ではそう思う。

 やがて子どもたちはそれぞれの道を歩み出した。それがどんなに険しい道であっても、きっと大丈夫だと思う。私たちは安全基地を手に入れた。ここには「こうしないと失敗」とか「うまく出来ないとダメ」なんて言葉は存在しない。外野のうるさすぎる声よりも、自分の心の声を大切にするんだよ。そんなベースがあるからこそ、子どもたちは歩み出すことが出来る。この仕組みになぜもっと早く気付かなかったんだろう、という後悔に似た気持ちは傍に置いて。今自分たちに安全基地があることにただ感謝しながら。今日も笑って過ごしている。

#あの失敗があったから

 それまでの自分を否定するのが怖くて開くのをためらっていた箱。一旦開けてしまったら、なんと楽なことか。今では「あの時の自分は未熟だった」と自分を受け入れることも出来るし、あの時文字通り髪を振り乱して我が子にとって一番善いことをしようとし続けた自分を抱きしめてやりたいと思う。
 子どもたちにとっては未熟な親の申し訳なさも感じているが、その感情ももしまた自分が過去の「当たり前」に縛られそうになったらピリッと自分に気付かせてもらえるように、そこに置いておきたい。

 敢えて「あの失敗があったから」と言うのであれば、私の思い込みや私の中に植え付けられていた「こうあるべき」という思考、それに振り回されて目の前の子どもの心に寄り添えなかったこと。それ自体「失敗」と呼べる。
 そんな自分がいたから、否そんな自分に気付いたから、今は何の迷いもなく子どもの気持ちを最優先に出来る。自分の気持ちを知ること、自分の心に従う感覚こそ子どもの頃に養っておきたい力。それを知らずに大人になった人たちが社会の中で孤立したり心を病む姿を日々見ている。
 私の「あの失敗」は、根性主義・成果主義・同調圧力の時代の中で育った私たち全員にとって「社会の失敗」「教育の失敗」と言えるだろう。

 今までの「あるべき」思考から抜け出し、自分の人生の主人公として自分の心の声に従って生きることが出来るようになったら、それこそ「あの失敗があったから」と、笑って言える社会になる。過去から継承すべきものと、そうではないものを精査して、新しい時代を子どもたちと作っていきたい。

 子どもたちが、生涯通して連れ添う自分自身と仲良くやっていけるように。私はこの安全基地で今日も子どもたちを見送る。

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なみお
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